まずは世界でなく自己、外でなく内に注目せよ

私のURLと「祭り」のある民主主義という記事が、〜大ブロ式〜 - ソーシャルブックマークこそが(市民)参加型ジャーナリズムである論に近いという指摘がご本人からあって、早速見てみた所、ずっとこちらの方が整理して書かれていますが、内容は確かに凄く近いと思いました。

それで、ここからリンクされている文章も面白く拝見したのですが、特によかったのが、〜大ブロ式〜 - まずは世界でなく自己、外でなく内です(この記事のタイトルはここから拝借しました)。


ブログが社会への影響力を持つ基底となるべき前提はまず人が変わる事でありその事によってしか社会への影響力などありえない。もしくはそれ抜きの影響など下らないものにしかならないと思う。

読者を変える為のツールではなくて、書き手が変わる為のツールということですね。この問題意識は、私の以下の文章に通じるものがあるような気がします。

「書き手が変化するプロセス」こそが、魅力的で本当に競争力のあるコンテンツだと思います。ネットの影響力は、読む人がそこに自発的に巻き込まれていくことから発生するもので、リモコンで衆愚を操作するようなものではないでしょう。

ただ、ここであげているような「変化」は本当に難しいものです。これと似た発想で「世界を変えるより自己を変える方が簡単だ」という言い方もありますが、私はこれはちょっと違うと思います。世界を変化させたヒーローと同じくらい、自己を変えることができたヒーローは希少で価値があるものです。

まずは、変えることが難しい頑固な自己をどれだけ正直に見つめることができるか、それが、世界を変える為の基点になると私は考えます。

自分の中で、この問題と微妙に共振するエントリが二点あって、ひとつは、早く人間に成りたーい。 - 男らしさ


よく女らしさからの解放とか、男らしさからの解放とかをうたって運動する人がいるけど、夫婦らしさからの解放とか、恋人らしさからの解放とかをうたった運動っていうのはあまり見ない。

これは、言葉の正しい意味でラデイカル(根源的)な指摘だと思いますが、それがご自分の幸せを等身大で見つめる所から出てきている所が素晴しいと感じました。

もうひとつは、こころ世代のテンノーゲーム - 「コミュニケーション」の脱神話化


どうにも感じるのだ。/そもそも、この「コミュニケーション信仰」の中に、「コミュニケーション」は不在ではないのか、という思いを。

ここで批判されている、モテにしろコミュニケーション能力にしろ教養にしろ、「自分が変わるべきでなく世界が変わるべきだ」という意識の延長にあるように思えます。どうしても変わらなきゃいけないなら、なるべく上っつらのことですませたいという意識。

それは、人間の本能としては当然のことですから、全面的に否定するつもりはありません。しかし、そこに留まって踏みこまない「コミュニケーション真理教」的な議論は面白くないんですね。そこから罵倒の言葉がたくさん飛び出してくるとしたら、やってる方がむなしさを感じているからだと思います。