コミュニティが「政治」をする作法
宮崎さんのコメントにはたくさん驚かされましたが、落ち着いて読んでみると、そこにも重要な問題提起があります。ポイントはここだと思います。
むかつきの原因をつくったのは、記事のデタラメな内容だけではなく、essa氏の影響力を求める姿勢です。落書きならいい。しかし、essa氏は落書きに力を求めている。政治を動かす力となることを志向している。誹謗中傷を繰り返されているものとしては、これはむかつきますよ。
しかし、どうでしょう。物陰から石を投げることしかできないような人たちが力をもつ社会など、誰も望んではいないと思いますけど、貴兄らはそういう社会をお望みですか?
私は、このコメントの言い方には賛成できませんが、ここで言われていることの中には、理解できる所もあります。そこで、気にいらない表現を私が納得できる表現に入れかえてみましょう。
「むかつきの原因をつくったのは、記事のデタラメな内容だけではなく、彼らの影響力を求める姿勢です。単なる思想的な主張ならいい。しかし、彼らはは特定のイデオロギーに力を求めている。政治を動かす力となることを志向している。捏造報道を繰り返されているものとしては、これはむかつきますよ」
「しかし、どうでしょう。根拠の薄い印象操作しかできないような人たちが力をもつ社会など、誰も望んではいないと思いますけど、貴兄らはそういう社会をお望みですか?」
こうすると、どこかで見た異様な敵愾心に似てくると思いませんか?
あるいはこうするとどうでしょうか。
「むかつきの原因をつくったのは、そこに並ぶURLのデタラメな順序付けではなく、彼らの影響力を求める姿勢です。単なる技術的な実装ならいい。しかし、彼らはは特定の技術的成果に力を求めている。世界全体を動かす力となることを志向している。Google八分を継続されているものとしては、これはむかつきますよ」
「しかし、どうでしょう。倫理や正義に関わる表現までもが特定の数値で一元化されてしまうような社会など、誰も望んではいないと思いますけど、貴兄らはそういう社会をお望みですか?」
これは、最近ここを読みはじめた方にはわからないかもしれませんが、このブログのメインテーマの一つです。
私と宮崎さんは似てる所があると思います(「違う!」と思っても訴えないでね!)。
私たちが共通に問題としていることは「コミュニティが『政治』をする作法」なのだと思います。
特定の価値観で閉じたコミュニティがあったとして、その価値観が、彼ら自身を縛っているのは問題ない。その中で、彼らが内輪で騒いでいる分には、その価値観や手続きがどれほど異様なものに見えても気にはならない。しかし、そういう閉じたコミュニティが「政治」を指向した場合は要注意である。内部の閉じた価値観の中で、いかに緻密な論議がなされ素晴しい成果が生まれていようとも、それが、全員が共有するものごとの決定に延長されることは望ましいと思わない。
彼らは、そのコミュニティが閉じてはいないと主張するが、そこに参加する為には、我々には受けいれがたい特異な価値観に同意しなくてはならない。そこに参加できない/したくない我々は、彼らに押しつぶされようとしている。
そういう問題意識ですね。
知識人 VS 小泉さんというエントリーも、知識人全体をひとつのコミュニティと見て、同様の主張をしているものと言えると思います。
ただ、私はコミュニティが「政治」を指向する場合の作法についてもいろいろ考えています。ひとつの鍵は、自分の属するコミュニティ内部の価値観や手続きを、外部の人にわかるように説明することだと思います。ネットの「影響力」については、そういうことをめざしていたわけですが、これは宮崎さんには理解していただけなかったようです。
それは残念なことですが、相手が悪いとは思いません。もちろん自分も悪くないと思ってます。(ましてや訴えられるほど悪いとは思いませんが)
複雑化した現代社会では、独自の価値観で運営されるコミュニティは無数にあり、誰もがそういうものに複数属しています。また、大半の人が、何らかの知識について専門家だと思います。だから、こういう衝突が起こる方が普通です。
そして、これを調停しようとする努力は、常に、自分が(コミュニティの内部で)無意識に磐石の基盤と考えている価値観を揺さぶることを強要します。だから、そこに感情的な反発が生じるのも必然だと私は思います。それを前提として、解決策を模索する必要があるのではないでしょうか?