ネットの「影響力」について

私が「ここ数日、誹謗中傷を続けている公的な団体」の宮崎さんという方から、厳しい批判のコメント(ここからいくつか)をいただきました。それにお答えしながら、ネットの「影響力」というものについて考えてみたいと思います。


私は貴兄がここ数日、誹謗中傷を続けている組織の人間です。(ご自身の書かれた記事から推察ください)

申し訳ありませんが、私にはどこかの組織を誹謗中傷しているという自覚はありません。「ここ数日」というお話ですが、ここ数日書いている内容全体を貫くテーマについては、セカンド・カップ はてな店に素晴しい要約がありましたので、それを紹介させていただきます。


集団知」の位相が変わったということなのだろうと思う。でも別にこれは新しい話ではなくて、もうずっと前からそのように受け取られていたのにもかかわらず、それを言語化するポジションにある人たちが頑として受け付けなかった。従って言論上認知されないシステムになっていた。しかしそれはもう動いている

これを、現在の政治状況にあてはめつつ、さまざまな言い方で言っているつもりです。

宮崎さんのコメントの続きを引用します。


公的な団体を記事(なのか、備忘録なのか判然としませんが)にする場合は、まずは、問い合わせをすべきではないのでしょうか。窓口を開いている団体に対して、そういう労もとらず、一方的に「憶測」を並べ立てるのは、およそ言論とはいえません。記事の作成方法としては、貴兄のお嫌いな朝日新聞以下ではないのかと思います。

私の書いていることが「憶測」かどうか、宮崎さんは私に真意を問い合わせすることなく意見を表明しておられます。このように、一般に公開された内容について、誰もが自由に意見を述べられることはよいことだと思います。


このような手法をとったうえで、影響力を誇示するのであれば、それはデマゴーグとしてのそれでしかないのでは?

誰もが好き勝手にモノを言えることを好ましくないと宮崎さんはお考えのようですが、それに対する好き勝手な批判が同等に許されるのであれば、自然と説得力のある意見が残ります。

現に私の意見についても、コメント欄でさまざまな批判を受けています。他にも次のようなものがあります。

一般的に、ネットを長く続けている人は、このような対立する意見を両方参照しつつ、どちらの意見に説得力があるか自分で考えて判断します。また、その中で少なからぬ人が自分の考えを発表し、それにまた別の人が批判を書きます。私も常にこういう意見を参考にしながら、少しづつ自分の考えを発展させてきたつもりです。

ネットにあふれる「誹謗中傷」は問題ですが、根拠や推論過程がきちんと書かれてない意見は、このようなプロセスに乗ることなく排除されて「影響力」を持ちません。

そういう抽出過程を経て残ったものは、一定の影響力を持つと思いますが、それは同時に多くの(さらに厳しい)批判を受けるということです。


という、怒りを感じているのですが、訴えるほどのこともない。時間が経てば、このページも更新され、目の届かないところにいくのでしょう。

そうです。たまたま今は私の意見が目につくのかもしれませんが、上記のプロセスを経ていくなかで、私のブログなどはさらに素晴しいブロガーによってすぐに淘汰されていくと思います。


結局、貴兄は、物陰から石をぶつけているだけなんですよ。それは言論とは縁もゆかりもない、卑しい陰口でしかないということを自覚されたほうがいいと思いますよ。

私は、「物陰」でなく誰にでも見ることができて誰にでも批判できるような形で意見を発表しているつもりです。だから、宮崎さんのおっしゃる「物陰」と「表」の違いがどのようなものかわかりません。

強いて推測すると、私の意見の内容に対する批判がなくて、私が意見を発表する媒体やプロセスを問題にしておられるようなので、既存の組織に所属して、その組織同士の決めごとにのっとって意見を発表することが、「表」と考えておられるように思います。

言論や政治に関わる組織というものも、意見を淘汰し、傾聴に値するものを抽出するプロセスの一つです。ネット上にも上に書いたような同様なプロセスがあります。そのプロセスの良否、役割分担について議論が必要なことには同意しますが、組織を通してしか多くの人に対して意見が発表できないことに多くの問題があることは、過去の歴史においてさまざまな形で実証されていると思います。

印刷媒体やテレビラジオのようなメディアしかないのであれば、それは物理的な制約として受け入れるしかありませんが、現在は、ネットという選択肢がありますので、これによる別の淘汰プロセスの活用も図るべきだと思います。その為には、技術者のみでなく、既存の言論メディアに携わる人たちが、そのような淘汰プロセスに参加して、それを実感から把握することが望ましいと私は考えています。

ただ、それが従来のルールと違うということを問題にするのでなく、ルール、プロセスの違いによって発生する利点と弊害を具体的に指摘すべきだと思います。

これは以前私が、似たような問題について書いた記事です。

ネットが「影響力」を持つとしたら、そこで自然発生しつつある新しい言論プロセスについて、信頼感を感じる人が増えているからだと思います。

ネットのユーザは、基本的に言葉の中身を問題にします。どのような根拠をもとにどのように推論してるのかということです。誰が言ったことか、どこで発表したかを問題にしないで、ひたすら「何」を言っているかを問題にします。

もし、私や他のブロガーの「影響力」を排除したいのであれば、言葉の中身を具体的に批判した方がいいし、従来のプロセスの「影響力」を残したいのであれば、そのプロセスを改良することで、ネット上のプロセスに負けない信頼感を持たれるように努力すべきだと思います。

言葉の中身を問題にするかどうかという点で、宮崎さんと私(や私に批判的な人を含む多くの読者)は対照的だと思います。宮崎さんは、私の書いたことの具体的な内容に言及することなく、私を批判されます。私(や多くのネットユーザ)は、「誰」が言っているかということより言葉の中身を問題にします。「誰」というのは、その人が過去に書いた言葉の蓄積以上の意味を持ちません。

言葉の中身だけが問題になるという意味で、ネット上に出現しつつある新しい言論のプロセスは、理想に近いものだと私は考えますが、そのプロセスやそこから生まれる「影響力」を誹謗中傷することは、かえって、そのような「影響力」を増す結果になると思います。通りすがりさんも、おそらくそういう印象を持たれたのだと思いますが、言葉に言葉で論理的に対抗できない人はネットの中では「リアル厨房」と呼ばれてしまいます。その点は注意された方がいいと思います。

これに対する宮崎さんのご回答は希望しますが、私には他にも書きたいことがたくさんありますので、これ以上の対話を継続することはないかもしれません。(無回答も対話のひとつであり、それもまた多くの読者によって評価を受けます)。それについてはあらかじめお断りしておきます。また、宮崎さんがここで書かれたコメントと宮崎さんの所属組織が結びつけられることは、その組織にとってマイナスとなると思われますので、組織名は明言されないように忠告します。(もちろん、宮崎さんがそう判断されないのであれば無理に止めませんが)。