フェールセーフな謀略に対抗して憎悪を研究する

ソフト開発プロジェクトや新規事業を立ち上げる時にだいじなことは、「失敗した時のダメージを最小にする」ということだ。もちろん、失敗しないようにいろいろ考えるけど、プロジェクトにはやってみなきゃわからないことがいっぱいあって、失敗する可能性をゼロにすることはできない。「絶対に成功する」と断言できるとしたら、そのプロジェクトにはやる意味がないということだ。

日本には謀略を商売にする人がいっぱいいることが最近よくわかってきたのだけど、そういう仕事でも同じことが言えるのではないかと思う。もし、そういう人たちが仕事のデキる人であったら、「謀略がバレた時のダメージを最小限にする」ということを考えているだろう。

そこで、「フェールセーフな謀略」とはどんなものか想像してみる。

それはおそらく、基本方針として「たとえ失敗しても憎悪と恐怖をかきたてることができればOK」ということになると思う。つまり、謀略に依存するような人たちは、人々が互いに相手を信じられなくなるような状況で利益を得る。奪いあう競争が激化することで、人々が分断するようにしむけたら、結果的に目的を達したことになる。

そう考えると、この一連の謀略のプランニングはリスク管理的によく考えてあって、私のボスなんかより、よほど頼りになるプロジェクト管理者だなあと思います。

確かに、秘密を暴くたびに、私は憎悪と恐怖をかきたてられている。これを逆転する思考の道筋が必要なのだ。

しかし、憎悪というのは扱いが難しいもので、憎悪をおさえこむことはできても撲滅することはできない。謀略屋さんというのは、そこをよく知っていて、戦争を憎悪することで憎悪と恐怖を増殖させようとしたりする。もし、その悪だくみがバレたら「戦争を憎悪することで憎悪と恐怖を増殖させようとしたりする」人たちを憎悪することで、憎悪と恐怖を増殖させようとする。

かと言って、「憎悪を憎悪する」というのはどうかと言うと、これもなかなかうまくいかない。"I hate hate crimes"というエネルギーは、確かに "hate crime" を撲滅することはできるかもしれないが、この文章に含まれている動詞の "hate" が、 "hate crimes" を撲滅する過程で増殖する。対象としての"hate crimes"が消滅した後に、その動詞の "hate" は行き場を失なって、何か別のものを憎悪するだろう。

要するに、先方は憎悪と恐怖の性質をよく知っていて、それを使いこなしているのだ。そして、特定銘柄の「憎悪と恐怖」に全てを賭けたりしないで、さまざまな銘柄の「憎悪と恐怖」でポートフォリオを組んで、それに乗るという、絶対負けない戦略を組んでいるのである。

これに対抗するのは、とても難しいことだ。しかし私は、小林よしのりが描く麻原の絵にそのヒントがあると考えている。

小林よしのりは麻原を憎悪している。それは当然のことで、理不尽な理由で自分を殺そうとした人間を憎むなという方が無理だ。その悪意と憎悪はあの醜い絵にしっかり表現されているけど、麻原を憎む人間なら、誰でもあの絵が描けるかというとそうではない。

あの絵を描くには、マンガ家としての圧倒的な技量と、芸術的な特別の才能が必要だ。そして、それ以上のものがもう一つ必要だ。あの絵は麻原によく似ている。どんなに誇張されていても、あの絵を見る人は誰でもこれが麻原だとわかるし、そこに麻原の醜さを見る。そこに描かれた醜さの特徴をひとつひとつ拾い出したのは、小林よしのりの憎悪だ。

小林よしのりは、自分の憎悪を抑えないで、それを使って悪相似顔絵を描く。この憎悪は、"I hate hate crimes" の "hate" とは違って、似顔絵を描き終わった後に暴走して、他に向かうことはない。

それで彼の憎悪が消えるかと言えば、それは消えないと思う。彼は、次の憎悪すべき人物を見つけて、その人間の悪相似顔絵を描く。そこに描かれるのは、間違いなく彼が憎悪すべき人間であって、彼は自分が憎悪すべき人間が誰であるのか間違えることはないだろう。

彼の言論はブレまくって迷走しまくっているように見えるけど、彼の悪相似顔絵の悪意と憎悪はブレることがない。彼の言論は謀略の一部に組みこまれているのかもしれないが、彼の憎悪は謀略屋さんにはぜったい利用できないものだと思う。

そのブレない憎悪の中には何か指針とすべきものがあるように、私には思える。「フェールセーフな謀略」に対抗する為には、憎悪によってブレることのない自分が必要なのだ。