フォルダー的な帰属とタグ的な帰属

Freezing Point -  「属性当事者」を卒業することを読んで、いろいろ共感する部分があって、自分の目指していることと、ueyamakzkさんのやっておられることに、共通点があるように思いました。


「発言できる人である」という時点で、私の個人としての属性は、「ひきこもり当事者」の平均像から著しく逸脱している。その意味において、私はやはり、「代表例」のように振る舞うべきではない。活動にしたがって徐々に人間関係ができ、社会的能力を身につけ、あるいは異性との交流を持ち・・・・といった事情が進めば、私の属性はどんどん「ひきこもり当事者」から逸脱してゆく。

これと似たような悩み、疑問を私もかかえていて、常に自問自答しています。

つまり、私は、プログラマ、技術者、オープンソースに関わる者として、自分の体験を、思想哲学的、社会的な文脈にのせようと意図して発言することが多いのですが、そういうことを試みる時点で、自分は「代表例」から逸脱していると実感せざるを得ません。

そして、書きながら、自分の能力不足や不勉強を痛感して、さらに勉強して新しい概念、用語を獲得するたびに、その乖離は深刻になっていくのを実感します。そんなことをする前に、まずコードを書くべきではないのか?いつもそう思いながらブログを書いています。

もちろん、「技術者」というのは社会から排除されるカテゴリーではないし、(排除されるとしてもずっと微妙な形で排除されるものですから)、風圧とか肩の重みは比べものにならないと思いますが、構図は似ていると自分では思いました。

それで、この問題も、技術的なメタファーを使って考えようと思うのですが、階層的なカテゴリー化による情報分類と、ソーシャルブックマークのようなタグによる分類に似た問題ととらえることはできないでしょうか。

つまり、今までは、パソコンのファイルシステムのようにフォルダーを階層化して、個々のファイルをそのうちのどこかのカテゴリーに収めるようなUIが一般的だったのですが、ソーシャルブックマークのタグによる分類は、それと違う方向を向いています。つまり、ひとつのブックマークが複数のタグに所属していて、タグもブックマークも全ユーザによって共有されています。

タグは、分類の為のツールでなく、カテゴリーを渡り歩くためのツールです。そういうツールが必要とされる社会になっているのです。

Yahooのディレクトリは階層的ですが、それが結構実用的に使えた時代もありました。階層分類が破綻したのは、ページの増加のせいだけではなくて、やはりネットを使う人の平均的な視点が、階層化になじまなくなっていたからだと思います。

フォルダ(単一帰属)とタグ(多重帰属)の問題は、人間存在の根源的二重性に関わる問題であり、「分類したい/されたい」という欲望と「はみだしたい」という欲望は、矛盾しながら対になって発生します。

そして、ひきこもりは一種の特異点であると私には見えるのですが、ひきこもり問題を「ひきこもり問題」というフォルダに押し込めたいという欲望と、押し込んでもそこから溢れ出てしまうことへの恐怖が、共に極大になっているように、私には見えます。


私が「ひきこもり」との関連において考えるべきなのは、自分の当事者属性を可能な限り軽症化すると同時に、メタな形で課題を析出し、そこに取り組むことだろう。

「メタな形で課題を析出し」というのは、ブックマークにタグを与えることに似ていて、そのタグをクリックすることで、別のカテゴリーの思わぬ問題につながっていくことだと思います。

そういう視点は今、最も必要とされていることですが、最も必要とされていることは、最も放置されてきた問題に焦点をあてることで、最も放置されてきた問題とは、最も反発の多い問題です。

「仕事とは何か」「社会性とは何か」「能力とは何か」「差別とは何か」「家族とは何か」「学校とは何か」「恋愛とは何か」「福祉とは何か」そういう様々な問題をそれぞれ特定のフォルダーに押しこめたことで抜け落ちたものを拾い集めたものが、「ひきこもり」という問題ではないでしょうか。そこにタグをつけると、それはたくさんの別のカテゴリーにつながっていってしまいます。

だから、内外から批判が多いのは、ある意味必然のことのように私には思えます。つまり、「ひきこもり」という問題それ自体が誰でも避けてきた問題であるのに加えて、《課題当事者》というueyamakzkさんの手法も有効であるからこそ、注目され反発されることのような気がします。

私も、ごくたまにですが非常に感情的な反発を受けることがあって、それは、「フォルダー」から「タグ」へという自分の問題意識が、たまたま相手にうまく伝わってしまった時のような気がしています。そういう時は、論理のレベルでは誤読と曲解のかたまりのような反論なのですが、不思議なことに「この人には私の書いたことが他の人よりよく伝わっている」と同時に感じます。

だから、納得できる反論が来た時はそれに答えて修正すればいいし、とても納得できないような反論が来た時は、「何か表現しがたいことをうまく書くことができたんだ」と考えればいいと私は考えています。そして私は、そういう時には、意地になってその方向に突っ走るようにしていますが、幸か不幸か、どうしてもブレてしまうことが多いようで、そういう反論は長く続きません。

(追記)

上記の「特異点」のエントリーの私の発言


「ひきこもり」には「ひきこもり」独自の事情もいろいろあると思いますが、「何らかの皺寄せを一手に引き受ける人」という観点から、「ホームレスや自殺」等も含めた「絶対弱者」という問題の具体例として見るような発想も必要だと、私は考えています。


そのような一般論としての考察には、あまり具体的な事例を知らない外部の人間も、多少は参加できる余地があるかもしれません。というか、そういう観点から、我々一人一人に深く関係する問題として、とらえていくべきだと思います。

今気がついたけど、これって、結構、《課題当事者》論を先行して論じてるっぽくないですか?