人間存在の根源的二重性

難しそうなタイトルをつけた時には、食い物の話から始めるのがコツですが、牛丼屋に入ると牛丼にしようかカレーにしようか悩むし、ラーメン屋に入るとラーメンにしようかチャーハンにしようか悩むものです。

欲望というのは、常に、二律背反的事象に向いているもので、牛丼を食うとたいていカレーを食えばよかったと後悔します。食い物は悔い物と言ってもいいくらい。

それで、ラーメン屋は半チャンラーメンというものを用意するわけですが、こういうふうに重ねあわせのできる事象ばかりであれば苦労はないです。というか、半チャンラーメンは、「ラーメンが食いたいけどチャーハンも食いたい」という欲望の形をしてません。

例えば、自分が男であるという意識は自分が女であるという意識を排除して成り立つもので、これはなかなか重ね合わせができない。自分が男であると思うか、自分が女であると思うかどちらかです。

そういうふうにこの世では重ねあわせできないものには、うまい言葉がないんです。

この存在と概念のミスマッチは誰が悪いのか?

概念が一義的であることは罪ではなくて、むしろ、二重性をそのまま生きていたら不便で、どちらかを表に出して反対側を裏にした方が便利だということで、言葉というものが生まれたわけです。言葉が一義的にできているのは便宜上のことで、存在というのは常に二重性を持っているものだと思います。

だから、二重性が面倒な時だけ、言葉を使ってどちらかの側面を確定すればいいわけですが、実際には一義であることが苦痛になってもなかなか半チャンラーメンをやめられない。

二重性をやめられないことを悪いことのように感じる人が多いような気がするのですが、悪いことではなくて不便なことであるというのが正解だと私は思います。自分の中の二重性をどちらかに確定しなければ、言葉を使った会話は成り立ちません。だから、それは間違いなく不便なのですが、その不便を受けいれれば、二重性の中で生きても全く問題はありません。

意識というものは、重ねあわせのできない二重性を包みこめるようにできていて、「重ねあわせにくさ」に応じて、意識の範囲を広げておけば、たいていの二重性はそのまま保持できるのです。

ちなみに、人間が集団であるか個人であるかも根源的二重性のひとつだと思います。

昔は、集団が表になっていたので、エポッキメイキングな事象は個人として現われてバランスを取った。ルター以来、個人が表になってきたので、事件は集団の中で起こるのです。