全体的最適化=無痛システムに関する社会システム論的考察

artonさんの政治家と牧師と技術者の話は、本当によくできた寓話であって、「システム的解決」の負の側面も明らかにする。

つまり、「健常者は昼、目の不自由な人は夜」という棲み分けをするというアイディアは、両方が自分たちのペースで気兼ねなくプレーできるので、理想的な解決法に思える。確かにこの方法によって、無駄な摩擦を回避することはできるが、同時にそれが障碍者と健常者の共存とは何か考える機会を奪うことにつながる。

例えば、前に障碍者の人がいたとしても、「待たせてすみませんね」「いえいえ、どうぞごゆっくり」といったちょっとした会話で、お互いに気持ちよくなごやかにプレーを続けていくという可能性はある。そこに起こる相互理解は、単にゴルフがスムーズにプレーできたという以上の意味がある。棲み分けによる分断化によって、そういう可能性はなくなる。

あるいは、私がもしプレーヤーであったら、なごやかな顔をして「どうぞどうぞ」と言いつつ、「何をグズグズしてるんだよ、この×××どもめ」と内心では差別的言辞盛り沢山で毒突いていたかもしれない。そして、帰ってから「俺はなんてイヤな奴なんだ」と悩むかもしれない。

自分のそういうイヤな所を見る可能性の無いツルツルの無菌状態の社会は本当によい社会なのだろうか。田中美津氏は、あえてそのような可能性の中に置かれることに積極的な意味を与え、それを取り乱しの権利と呼んでいる。

「システム的解決」は多くの場合、棲み分けによってそういう摩擦を回避することで、そのような倫理的課題を隠蔽する。これを「解決」と見るのがシステム的観点で、これを「隠蔽」あるいは「取り乱しの権利」の剥奪と見るのが、倫理的観点だと思う。倫理的課題はシステム的には解決できない。

モヒカン宣言全体最適


たくさんの人がハッピーになれるエレガントな方法を見つけた時、我々は最もハッピーになります。

は、何が「ハッピー」なのか決めるのは誰か?ということに敏感でいないと、無痛文明を強制する恐しい圧制につながる。だから、エレガントな全体最適化というのは、実に微妙な問題だと思う。

ただ、だからと言って、最適化やシステム的解決を全く放棄するのも退化であり、場合によっては、倫理的課題に対する別の隠蔽になる。rir6システムを実装しようで取り上げた、メンヘラー向けサイトの問題を例として、これをもう少し考えてみたい。

ARTIFACTさんがこれをまとめつつ具体的なアイディアを提示されているが、このような方向の「開かれて閉じたシステム」が、もう少し練られれば、今のブログのように広汎に使用されるレベルまで普及する可能性は高い。あるいは、私がRSAが存在しなかった2005年で夢見ているような画期的な解決の可能性もある。

こういうシステム的解決は、記識の外 - メンヘルがどーの、というよりもむしろ。で分析されている


誰しもが閲覧できるにも関わらず、そこで書き手によって「禁止」を宣告し閲覧者を選別することが、「禁止」のディスクールにとっては重要な要素となっている。

「禁止」を宣告する人たちにどういう影響を及ぼすだろうか。

現状のシステムを前提として「無断リンク禁止」を訴える人たちの中には、単にシステム的解決を望む(けどそれを想像するだけの技術的知識を持たない)人たちがいて、それとは別に「誰もが閲覧できる状態で『禁止』を宣告することで何かを表現しようとする人たち」が混在している。そして、システム的解決は両者を分断し、後者を孤立させるだろう。

ただし、それは「誰もが閲覧できる状態で『禁止』を宣告することで何かを表現しようとする人たち」の主張から、雑音を取り除いて、それを明確化しているのであって、そこで、明確化されたその主張が圧殺されたとしてもそれはシステムの責任ではない。

そこで取り除かれる「雑音」とは、ひとつのシステム的課題であり、倫理的課題とは別にシステム的課題もそこに存在しているのである。プログラマに、そこにあるシステム的課題を黙殺することを強制するのは、倫理という名の別の圧制だと私は思う。

システムは何も解決しないが、何も選択はしない。単に、「あなたは『無痛化』を選択しますか?」という問いを、クリアにしているだけである。「たくさんの人たちが無痛になれるエレガントな方法を私たちは発見しました。もしあなたたちが無痛化によってハッピーになるなら、私たちもハッピーです」と言うだけだ。「無痛化」を選択するのは(倫理的課題に直面する人たちの集合体である)社会である。

そのような問いを先鋭化することは意味のあることで、だから、「開かれて閉じたシステム」の近似値をさまざまなレベルで模索し実装することも意味のあることだ。

馬場靖雄氏がルーマンの社会理論で、これと似た問題について、法とリスクの問題を例にして次のように表現している(P158)。


法がリスクの問題を自己のパースペクティブの内部において適切に扱えば扱うほど、そのこと自体が他のシステムにとってはひとつのリスクとして現れてくる。ここでもまた、この「法のリスク」(「リスクの法的考察」ではなく)を法システムのうちに回収することはできない。

これと同じことが言えると思う。すなわち、プログラマが倫理の問題を自己のパースペクティブの内部において適切に扱えば扱うほど、そのこと自体がひとつの倫理的課題として現れてくる。ここでもまた、この「システムの倫理的問題」をシステム設計のうちに回収することはできない。

もちろん、これは相互に入れ替え可能であって、次のようにも言える。道徳家がプログラムの問題を自己のパースペクティブの内部において適切に扱えば扱うほど、そのこと自体がプログラマーにとってはシステムの要求仕様として現れてくる。ここでもまた、この「システムの倫理的問題」を倫理的考察のうちに回収することはできない。

だから、私の結論は陳腐なもので、システムは倫理的課題を解決しないし、倫理はシステム的課題を解決しないということだ。しかし、システムはシステム課題を解決することはできるし、それをやめるべきではない。ただし、その際に、その解決が倫理的課題をも解決したという幻想を持ってはいけない。幻想を持たずにシステム的解決を提示して、それが(ある人たちに)拒否されることによって、ひとつの倫理的な課題を明確化することができる。それがプログラマのすべきことだと思う。

(余談)

これは馬場氏が「社会学的啓蒙」についてまとめた次の一節に似ているような気がする(P167)


社会学的啓蒙が求めるのは、システムの「固有論理」を貫徹せよ、そして結果として棄却され、失敗せよ、である。ただし失敗はあくまで結果として生じるのであって、失敗そのものをテロス(引用者注:=目的?)としてはならない。テロスとなった失敗は、それ自体失敗しえないポジティブな論理として自己を貫徹してしまう。つまりシステム内部に取り込まれてしまうからである。

この問題を考察することで、ルーマンの「社会学的啓蒙」なるものが少しだけわかってきた。

倫理や法とシステムとの関係は、Google八分を最初に言い出した時から、私にとっては大きなテーマの一つであったのだが、それにルーマンがどう答えていたのか、その片鱗が見えてきたのだ。

つまり、上記のような倫理とプログラムの問題を解きほぐし、両者を統合し超越し俯瞰する上位の観点を獲得することは、社会学的啓蒙の意図する所ではない。また、それ(統合)が不可能であることを証明することで裏側から絶対的な観点を獲得すること(否定神学)もそうではない。

諸学の統合でも否定神学でもない「社会学的啓蒙」というものがあるということで、それが何なのかまではまだ言えないけど、id:using_pleasureさんのエントリーは、なるほどそれに近いような気がする。