たゆたえど沈まず: 君たちが狂気

待ってました!「小さな目で見る大きな世界」の中の人(standpoint1989さん)フカーツ!です。(でも、文体変わってる?)


私にとってこれは「公共性を拒否する自由」の問題であるように思える。

ほぼ同意なんですが、「『公共性』という言葉を定義する権利は誰にあるのか?」と言った方が近いように思います。

これと関連してLazyLicoさんのコメントですけど、


このように、問題(に含まれる要求や制約)を記述したり解決策を考える際に価値語(倫理とか権利のようなメタルールの合意が必要な言葉)を使わないという方法論は、モヒカン族の重要な本質のひとつと考えていいのでしょうか。

これは答えるのが難しい微妙な問題ですが、「価値語を使わない」ということは、私は原理的に不可能だと考えています。

つまり、どれだけ客観的にシステム的に議論したとしても、そこには常に見えない価値判断があって、その価値判断を巡って権力闘争が発生するということです。

その権力闘争の弊害を最小にして、モヒカン宣言で言う「全体最適化」する為の具体的な方法論は、多くのモヒカン族の人と近いものになると思いますが、根本的な発想はそういうことで、その点は、他のモヒカン族の人と違うかもしれません。


essa 氏の技術論につなげていく視点はポジティヴだけれども、仮にそのようなシステムが可能になったとして、なおかつそのシステムを利用せずに「うちはリンクフリーじゃありませんから」と言える、道義的な自由がそこにあるかないかという問題だと私は見なしている。

私もその問題が消えるとは思っていませんし、技術論で解決する方向はrir6さんは歓迎しないような気がしますが、私は自分が面白いと思った所を考えていくだけです。上の記事のように、少なくとも頭の体操としては実り多いものになると思います。そして、それはrir6さんの問題意識がなかなか深い所をついているからだとも思っています。