エロ度計、エロい言及数、「エロい」という体験

東京の一番エロい日をとりあげたたろの日記ページさんが、私の意図を実にうまく解説してくれています。


気温の話と,気分の話から思うのは,本来は「指標」というのは人が感じるか?…が出発点だったのにいつのまにか物理量が基準になってしまっている…という,わたしにいわせると妙な状態になってるのが現代でしょう。


もちろん,感じるのが個人か,みんなか?,ある集団か?…という違いで一般性があるかないか?って話はあるとは思いますが,測れないから存在しない…というようなことは本来は無いのだと思います。

うまくまとめてもらって、自分でも言いたいことがよく見えてきたので、続きを書きたいと思います。

この話では、「気温」と「暑い言及数」と「『暑い』という体験」が出てきます。そして、この3つの概念は、物理的実在、社会的現象、主観的体験に対応しています。私が言いたかったのは、それぞれが重要なことであり、それぞれに特有の方法論があるということです。

物理的実在

「気温」は物理的実在で、「温度計を見る」という機器の操作で容易に共有(再現)できる体験についての記述です。我々がリアリティというと、まず、このような物理的実在に還元できることを指します。

例えば、「暑い」という体験が実在すると思われるのは、「暑い」という主観的体験を温度計の数字に対応させることができて、その温度計の見方は、誰にでも理解できるからです。そして、主観的体験と違って、温度計の数字は容易に操作できます。例えば、クーラーという装置は温度計の数字を下げる装置であり、これによって「暑い」という体験をやわらげることができます。

しかし、実際には、「暑い」という体験は気温の高さのみを意味しているわけではなく、陽光の下での開放感とか、汗ばんでまとわりつくワイシャツとか、仕事の後のビールはうめえ、とかのいろいろな体験を背景にして成り立っているわけで、それを温度計の数字によって代替しようとした時に、それらの背景は切り落とされます。

クーラーで25度に冷えた部屋と、28度の森林の中で心地良い風にあたることを、温度計の目盛だけで比較することはできません。この場合、まず「クーラーで冷えた部屋の方が涼しい」と言いきることが科学的方法論です。これに対して科学的方法論は異議を認めないわけではないのですが、文句を言うなら、「湿度」とか「マイナスイオン?」とかの別の物理的実在を持ち出さないと受けつけません。

そして、その別の物理的実在が「気温」と同様に、別の装置で誰もが測定し、再現し、共有できることを強要します。

体験を特定の手続きで切断することを強要し、それによって共有可能にするのが科学の方法論です。「特定の手続きを強要すること」と、「一部を切断すること」が両方とも忘れられていると思います。

「特定の手続きを強要すること」が忘れられていることで、厳密な批判的検討を通り抜けていない「マイナスイオン」や「ゲーム脳」等の概念が、あたかも科学的な概念であるかのように通用してしまうことが問題です。また、「一部を切断すること」が忘れられていることによって、主観的体験特有の深さや多面性が無視されていることが問題です。

社会的現象

「暑い言及数」は社会的現象です。人々が社会の中で出会う時に発生する事象の特定の側面に焦点をあててピックアップしたものです。

社会には考え方やものの見方が異なる多くの人がいて、多様な人の出会いには多様な可能性があって、そこにはさまざまな事象が存在します。そういう社会的事象に対して客観的な研究をすることが可能であると言ったのが、マックスヴェーバーです。ただ、彼は同時に、そのためには特有の注意事項があると言い、それを「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」という本で定式化しました。

ヴェーバーは、安易な法則化と法則による支配をいましめました。例えば、ミーガン法は、「性犯罪者は再犯率が高い」という社会的事象に関する「法則」を前提として、客観的な法則を客観的に適用した結果として「性犯罪者の監視」という「政策」を主張します。

ここで問題なのは、そのような「政策」があたかも科学的法則の必然的帰結であるとして、そこに主観的な価値判断が含まれてないと主張する人たちがいることです。


ある適合的社会手段の採用は、適合度の検証に加えて、当の行為主体個人による当為判断ないしは価値判断にもとづく選択であり、この選択の責任は、科学に転嫁されることなく、あくまで当の個人の責任として、問われなければならない。(「客観性論文」岩波文庫版解説P194)

そして、社会科学の機能は、因果関連や法則と価値判断を分離して、議論をサポートすることだとしました。それを理解して、「事象」が問題意識によって発見されるものであることを理解していれば、何でも社会科学の対象となり得ると言いました(同書のessa流要約)。

だから、「エロい言及数」は、株価等と同様に社会科学の対象となり得るのです。そして、「エロい言及数」に関する法則が直接的に社会を操作すること(性犯罪の抑止とかヌード写真集の売り上げアップ等)に役に立たなくても、それは意義があるのです。


売春も、宗教や貨幣とまったく同様に、文化現象である。そして、この三者がすべて同様に文化現象であるのは(中略)われわれの認識意欲をそそるからであり(中略)、そのさい当の価値理念が、売春・宗教・貨幣といった概念で考えられる実在の断片を、われわれにとって意義あるものとするのである(P94)

社会科学は、価値観を回避するから有効なのではなく、価値観を明確にするから有効なのです。例えば、「ミーガン法」や「人権擁護法案」を主張する人たちが、実際にはどういう価値観で何を主張しているのか、それを明確にすることが社会科学の目的ではないかと思います。(例えばこういう分析)

ネットの中には、扱いやすい社会的事象がたくさん存在していて、ネットの中では、多くの価値観がぶつかります。

だから、たくさんの議論や衝突が起こることは必然で、それを交通整理する為の社会科学の役割は、これから非常に大きいと思いますが、その時に、ヴェーバーが定式化した、科学と社会科学の違いが広く認識されることが重要だと思います。

主観的体験

それで、主観的体験、個人の内部で起こる「暑い」という体験については、学問の対象とならないのか、全く個人的なことでいかなる方法論も通用しないのか?

実は、そこにも物質科学や社会科学と同様に、膨大な知の蓄積があります。美しさの中を歩め--Spirit, Soul & Body: スピリチュアル思想の基本についてに、それについて述べられています。


みな、世界がそこにあることが「あたりまえ」だと思っている。だがそうではない。なぜ世界があるのか、いや、本当に世界というものがそこにあるのかどうかということが、大きな問いであるのだ。この問いがわからなければ、「思想」はない。

デジタルトルーマンショーのようなことを考えていたら、全てのWEBサイトを疑いの目で見なくてはなりません。同様に、自分の目が見ているものが本当なのか?視神経というアクセス回線に透過PROXYが仕掛けられていて、レイザーラモン住谷によって偽の光景が送りこまれてないか?あらゆる感覚器官について、そう考えていたら、「世界が自分の見ているように存在している」ということは確かでなくなります。

実際、これは誰にも証明できないことで、「世界が自分の見ているように存在している」ことにしておこうと言うことしか我々にはできません。

それで、これを疑うことに意味があるのか?

「間違ってはいないけど、そんなことを考えても何も生み出さない。ナンセンス」と結論をつけてしまいたくなりますが、「何も生み出さない」というのは、科学的、社会的に「何も生み出さない」と言っているわけで、それが主観的体験として「何も生み出さない」かどうかは、やってみなければわからないことです。

「主観的体験を二次的に扱ってもよい」という価値観は、自分の責任によってひとつのバクチとしてそれを選択することはできますが、いかなる科学によってもそれが真理であることを証明できません。

もちろん、逆に「外に見えるものを二次的に扱ってもよい(自分以外は全てネタ)」というのもバクチであるわけですが、そのバクチをして大穴を当てておみやげを持って帰ってきた(と主張する)人はたくさんいて、そういう人たちの報告というのは実はたくさんあるわけです。

真の宗教的実践は、必ずそういう問題を含んでいるものであり、それは「暑い」という日常的経験を(他の事象に還元しないで)大切に扱う所から出発するものだと私は思います。

補足

私にとっては、これら三つの観点は、どれも重要な知のソースであって、どれかひとつが絶対とは思いません。それぞれにリアリティを感じるし、どれにも特有の利点と特有の危険性があると思います。

これらの記事で私が取り上げたケン・ウィルバーは、この問題を「4つの象限」という形で整理して、「意識についての学」を中心に「深さ」という次元を設けて、そこに統合していく道を提示しています。

私は性急な統合には副作用が多いと思うので反対ですが、「深さ」も含めたウィルバーの図式は有用なものではないかと考えています。

また、個人的な体験と社会的事象の葛藤について、どちらにも偏らない解決の道を実践しているアーノルド・ミンデルという人がいます。これまでも何度かとりあげていますが、ついでですからリンク集。

ミンデルは、NCR(Non Consensus Reality)という概念を提示しています。つまり、主観的体験もリアリティであるがコンセンサスが取れないリアリティであり、CR(Consensus Reality)とNCRはリアリティとして同等だということです。

蛇足

タイトルはアクセス稼ぎです。タイトルに「エロ」という言葉を入れておくとむやみにアクセスが増えるみたいなので(笑)。