教養がアカウンタビリティを支える

北沢かえるの働けば自由になる日記 - 選挙に出るよ!から


「なんで顔が貼ってあるの?」 「選挙に出た人の顔だよ。ここにポスターを貼って『投票してください!』と呼びかけるんだよ」 「じゃあさ、私も貼ろうかな」 「勝手に貼ったら怒られるよ」 「貼ったら選挙に出れるんでしょ、貼ろうよ」 「貼っただけではダメです」 「わかった! 名前を大きな声で叫べばいいんだ。大きな声で叫ぼうよぉ」/って自分の名前を叫びながら歩き出す。

北沢さんの娘さんは、少し漢字を覚えたらアーレントを理解するのではないかと思った。


第一にそれ(公的領域)は、公に現れるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示されるということを意味する。

社会はまずアカウンタブル(説明が用意されている状態)でなければならない。それはもちろん全ての母親がアーレント嫁ということではなくて、素直な好奇心をアーレントに接続する回路が開いていてアクセス可能でなくてはならない。

教養とは、あいまいなことにきちんとした説明を準備する能力だ。その説明に対する説明も用意されている。説明に対する説明に対する説明も用意されている。それぞれのレベルで担当者が違っていて、最後の方になるとアーレントのような人が出てくる。ポスターでも共謀罪でも、そういう意味でのアカウンタビリティが、各レベル接続して動いているのがよい社会だと思う。

「これは何?」「あれは何?」と言っているうちに、全ての疑問を封殺されることなくそのまま大人になれるのがよい社会だ。もちろん、全ての謎に答えがあるわけではないが、子供は、誰にも解けなかった難問をいくつか見つけて、そのうちひとつを選んで大人になる。彼/彼女の人生がひとつの解答となり、世の中はそうやって進歩していく。

教養のある人を要所要所に配置しておけば、自然とそうなると思う。

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