くまりんが見てた! ? 思いが伝わるということ
私の歴史を引き受けて自分が変わるということについて、レスポンスと詳しい解説をいただきました。
くまりんさんへの全面的な共感を表明したエントリーですが、かなり自分流にアレンジした表現をしていたので、「正確に理解」と言っていただいて、まずはひと安心です。
私の表現は、背後にくまりんさんの深い文章があってそれにリンクしていることで成り立っているものです。私の言い方の方が間口が広いのかもしれませんが、それは、自分の読者(=自分と興味や指向が似ている人)をくまりんさんの思想と記事へ導くことだけを目的としているからだと思います。
そうしたいと思う自分の気持ちと、そこで自分にできることをなるべく正確に把握して、それを着々とこなすことが、私にとってブログを書くこと(目標)なのですが、そこには仏教的なセンスがあるかもしれません。
私と仏教の関わりは、ニューエイジ本や河合隼男さんみたいな通俗書を通した皮相なものですが、やはり釈尊は、人類史上最高のSoulHacker(自分を知る為のハックを残した人という意味の私の造語)ではないかと思います。歴史を知ろうとすれば、その知恵が自分の中に生きているのを自然に感じることですが、このような対話を通して確認させていただけるのは、ありがたいことです。
それと、以下の部分もスリリングなお話です。
そういう日米の第二次世界大戦に対する議論の中にフランスの学者が加わることがよりよいバランスを取ることになると思う。
例えば現にインド初期仏教にに対する研究と相互の批判は日米仏の学者の間で相互批判を繰り返しながら活発に行われています。それらの成果を踏まえて中華思想や日本の近代思想史についても仏教の視点からの研究ばかりでなく新しいパラダイムによる相互批判的議論に日本だけでなく仏、米の学者が参加するようになってきました。
「仏教に関する国際的な研究」において、鍛えられたものというのは、軽いものではないでしょう。そのような真のアカデミズムの国際的な成果が、アクセス可能であることは、政治に対して、よいプレッシャーを与えると思います。
実に楽しみです。
それと、私の「方法論の明確化と共有」ということに自分でひとつ補足しますと、書いてから気がついたことですが、これはオープンソースに通じるもののような気がします。
プロプライエタリなソフト押しつけられるとことと、権威の基いて学説の結論だけを押しつけられるのは、なんとなく嫌な感じが似てますね。そこで、ソース(プロセス)が公開されていれば、たとえそれが自分で理解できなくても、誰かがそれをチェックすることが期待できます。
実際には誰もチェックしていなくても、公開した人がチェックされることを覚悟して公開していることだけは確かなので、そこに信頼感が生まれるわけです。
(おまけ)
これについて、finalventさんから帝都物語嫁という謎のレスが。
(読んでないし司馬史観に結構洗脳されている私としてはやや汗(^^;;)