辛抱 VS 工夫

bmpさんがここで提示している図式が面白い。

 客も居ないのに、暇と戦って過剰労働つって、あくびして目こすって
肉体を酷使して如何にも労働してるかのように見せるのって
何か違うよなぁと思ったけど

というタクシー運転手さんのように「辛抱」に価値を置く人は

 そこら辺のネットワークで近距離で局部的に乗車・混雑率が
異様に高い地区を探してそこに三人相乗り1000円タクシーとか

というような「工夫」を、最初から拒否していると思う。

その「工夫」が本当にうまく行くのかを疑うのではなくて、それが「辛抱」をバイパスする回路であるがゆえに、ハナから受けつけようとしない。「工夫」に対しては金が出るのに、「辛抱」に金を出そうとしない社会は間違っているという考え方だ。

そういう「工夫」をするだけの能力が無い、訓練を受けてない、試す機会がなかったというようなことを呪ってもいいような気がするが、そういう方向に恨みを持たないで、自分が「辛抱」しているのに金が出ないことだけを訴えているような気がする。

「辛抱」に価値を置くことはかまわないけど、それを経済にリンクするのがおかしいし、それで不幸になってると思う。経済にリンクさせるなら、価値の回転を説明しなくちゃいけなくて、例えば、簿記の計算をきちっと合わせるには、昔はすごく辛抱が必要だっと思うが、今そういう方向の辛抱で勝負したら、EXCELとかと競合することになってしまう。むこうの「辛抱」は筋金入りで、しかも生涯賃金が数万円で、これは勝負にならない。

「辛抱」の経済的価値は暴落していて、相対的に「工夫」の価値が上がっている。金の話につなげて、そういうことを言うのはどう見ても無理がある。

「辛抱」に価値を置くなら、それは宗教的なものになるべきだ。

神が与えた、この世界、この環境、この運命を、自分は理不尽だと思うけど、ひとまずその疑念をわきに置いておいて、神様を信じてやってみようと思うのが「辛抱」であって、私もそこには何か宗教的な意味で重要なものがあると思う。

「あなたは『辛抱』という神様に宗教的に帰依してるんですよ」ということを誰かが教えてあげるべきだ。

宗教的には「工夫」にも同じ意味がある。理不尽に見えるこの世界に、神様のことだから何か別解を用意してあるだろうと思い、それを追求するのが「工夫」というものだろう。どちらも、根本に神様への信頼があるわけで、ある意味すごく似ている。

それが宗教的感情であることに気がつけば、「工夫」に対する嫌悪感のようなものも薄れるし、経済的行為として「辛抱」を追求する必要がないことも理解できるのではないだろうか。