むなぐるま: 海外から見る「日本の保守派」の風景


しかし、「日本を西洋近代から救出する努力それ自体が、西洋の道具、とりわけそれらを定式化するのに使われる哲学概念と言語によって、避けがたく汚染されている」としたら、いったいどうしたらいいのだろうか。

日本の保守派の言論が宿命的に持つ弱さですね。

オブジェクト指向が難しいのは日本語訳のせいであるという説があって、同感なんですが、確かに「Object」という言葉の語感をわかることが、この技術的なタームの理解につながるような気がします。私の「コンテキストを巡るコンテキスト」も似た話かもしれない。

科学技術、アカデミズム、言論等の言葉というのは、我々が日常生活の中で使う言葉とは明らかに乖離していて、日本語で生きるということは、こういう領域で活動する為には確かに大きなハンデになります。

これを克服するには、いっそのこと覚悟を決めて、それを逆手に取るしかないと思うんです。地獄の釜をもっともっと熱くするんだという文章で書いたことですが、


つまり、あそこでは全く新しい日本語が産まれているのだ。そしてその言語で伝えられる情報量は英語より密だ。英語よりバイト数あたりで伝えられている情報の総量が大きいのだ。しかも、英語はスピードが高速に固定されているのに対し、「2ちゃんねる語」はスピードが可変だ。必要に応じて「日本語」のレベルまでスピードを落として、まったりすることもできる。論理だけを屹立させたシンプルな表現もできるし、微妙な情緒をこめた言い方もできるし、ひとつの文の中にそれを両立することさえ可能だ。コミュニケーションのためのツールとしては、英語より完成されているのかもしれない。

我々の強み、弱みをスィッチヒッターのそれとして認識してみるのはどうでしょうか?