「からくりテレビ」を取り巻く複雑な世界
先日、とくダネ!のオープニングトークで地図の国名あてをやっていて、佐々木恭子アナがイランとサウジアラビアが答えられないという醜態をさらした。時事問題の焦点であるイラクの南北の隣国が答えられないのは、ちょっと問題だ。
「アナウンサーは教養ある人である」という建前について、回りのスタッフが鈍感すぎるように思う。隣にいたはずの笠井アナは沈黙を守り、そのコーナーが終わると同時に画面に出現した。彼なら答えられたと思うのだが、実際そうなのかどうかではなく、「彼ならそれくらい答えただろう」という幻想を守り通したことが重要だと思う。
「アナウンサーならイランの場所くらい知ってろよな」という私の期待は、テレビ局の想定する平均的視聴者像とはズレているかもしれない。ましてフジテレビの女子アナだ。別に驚くことでも意外なことでもないと、一方で私も思う。
そこに距離があることは理解するけど、それは、視界からはずれてしまうほどの距離なのだろうか。
どうも距離がある人を簡単に視界からはずしてしまう傾向がテレビ局のあちこちにあるような気がする。
あびる優の件なんかが典型的にそうで、倫理観や素行に問題があるタレントなんて何とも思わない視聴者がすでに主流になっていたとしても、そこだけを見て番組を作っていていいものではない。
波田陽区のギャグでスポンサーを怒らせてしまった件も、スタッフが不注意すぎるように感じる。怒る方がおかしいと思うけど、それならなおさら要注意スポンサーとして事前の確認や打診等があってしかるべきではないのか。
しかしこれは無理もないことである。番組製作者を取り巻く環境が、非常に複雑化しているのだ。
例えば、「8時だよ!全員集合」は「打倒コント55号」が合言葉だった。彼らにとっての敵は欽ちゃんとPTAだ。欽ちゃんとPTAを敵に思える人なら、それだけで無条件に味方である。その頃のテレビは単純だったと思う。
「おれたちひょうきん族」は、そのドリフ全盛期に打倒ドリフで始まったものだが、彼らにとっての敵はドリフとPTAだ。欽ちゃんがどの程度意識されていたかはわからないが、意識していたとしても、カテゴリー的にはドリフと同じ古い感覚のギャグの仲間であって、彼らの世界で三つ目の敵として意識されていたわけではないだろう。
そういう時代には、PTAは番組作りの視界には入っていた。PTAを怒らせるとしたら、基本的にある程度は意識して怒らせているのである。だから、ふいうちをくらっても致命傷にはならない。今は、そのような外部の視線を見渡すだけの余裕がないのだろう。
今私がよく見るバラエティ番組は、「エンタの神様」と「さんまのからくりテレビ」だが、「エンタ」は、芸人を使い切ってポイ捨てする姿勢に「電波少年」と通じる匂いを感じる。そのドライな姿勢と濫用される芸人のアップダウン自体がひとつのコンテンツとも言えるが、今となっては、それは旧世代の感覚だ。ボビーを格闘技で使い切らない「からくり」の方が、ポスト「電波少年」時代のバラエティという感じがする。「からくり」の煮え切らなさには何か秘密があるような気がする。
もし、T部長が現場のトップとなった日テレで「からくり」が制作されていたら、おそらく番組スタッフからT部長は敵あるいは「外部」に見えるだろう。かと言って、そのアットホームな雰囲気を評価して、「関根をおろして欽ちゃんを出せ」とか言う人がいたら、その人はもっと敵である。「からくり」が最先端だとしたら、過去にヒットしたバラエティの感覚で番組制作を理解している人は全て敵である。
しかも、「ひょうきん族」がドリフと欽ちゃんをひとまとめの敵として扱えたように、過去を全部ひとつのカテゴリーとして敵視することは「からくり」にはできない。「電波少年」にとって過去は全部自分の後にあって、ひたすら取り残して自分がぶっちぎっていけばいいものだったが、「からくり」は前後左右全てを過去に囲まれていて、それでいて自分が最先端なのである。
「からくり」を取り巻く世界は、「ひょうきん族」はもちろん「電波少年」よりかなり複雑なのだと思う。
おそらく今は、大半のバラエティ番組が、そういう非常に複雑な環境の中で作られている。だから環境に対する適応としては、昔の番組製作者よりはるかに高度なことをしているのだが、それでも時々スッポリ遠い所にある人たちが視界から抜け落ちてしまうのだろう。
だから、私はテレビを非難する気はないけど、ネットユーザの視野が狭いことを、一方的にネットのせいみたいに責めるのはどうかと思う。むしろ、このような種類の複雑さを、大半のネットユーザはもっとうまく扱っているのではないだろうか。