聖俗と公私のよじれ

そこでさっそくですが、アレントを離れて、匿名擁護の議論をします。

日本の公共性はどこに?【やめて下さい!】学級会【いけないと思います!】に書いたことだが、日本には「公的領域」は確立していない。日本だけでなく、世界のほとんどの国に「参加者相互の対称性」にもとづく「討議」という概念は土着的には存在しない。

アテネでそんなものができたのがひとつの奇跡で、それがローマに継承されたのがもうひとつの奇跡である。

ただ、この二つの奇跡は既に起きて、ある程度のその効果は立証されているのだから、今は、どこの国でもそれを輸入するのは簡単だ。「アレント100回嫁」ですむ話だ。

しかし、日本では、もうひとつ別の奇跡が起きていて、別の形の「公」が確立されている。

大企業の中で(周辺で)仕事をしていれば実感できる話だと思うが、大半の大企業は事業部に分割されていて、本社がそれを統括している。事業部から本社を見る視線が「公」である。

これは、武士が朝廷を見る視線と正確に一致していて、言葉にすれば「高貴なお方は現場をわかってない」という感じ。これが、現場の暴走に倫理的な根拠を与える。

この原因については、私は次のように推測している。

欧米の「公」は世俗的権力であって常に教会と戦ってきたので、「公」と「聖」は反対のカテゴリーに入る。「いいことを言うけど、役に立たない」人では、教会と戦えないので「公」の一員となれない。

しかし、日本の「公」は天皇という宗教的権威と結びついていて、それのアンチテーゼとして「私」つまり武家政権ができた。だから日本では「公」=「聖」であって、企業の中では、「公」=「聖」という属性を本社が担い、そこは美しく空虚なことが言えれば実効性は問われない。「責任ある人」は「私」である事業部(現場)に所属する。

こういう感覚は、一般の日本人の中に深く根づいていて、他にも例えば、水戸黄門は、「公」=「聖」属性を人格化した神話である。例の番組改編の問題も、抗議している人たちは、反対意見を挿入したことで「神聖な裁判を穢された」と感じているような気がする。「聖」と潜在的に対立する「公」という感覚があれば、これはあり得ない。

だから、日本で「参加者相互の対称性」にもとづく「討議」ということを訴えると、それは自動的に「公」=「聖」にマッピングされる。その結果、美しさが要求され実効性が排除される。何もない所にアゴラを持ちこむより、もう一段強い困難がそこにあるわけで、日本でリベラルが育たないのはそういうわけかもしれない。

それでこれに対抗する勢力は、「私」に準拠することになって、ドロドロの談合政治になるわけです。

2ちゃんねるに代表される匿名性は、この「公」=「聖」VS「私」という対立図式そのものを破壊して、実効性のある公共性を確立しようとしているのではないでしょうか。