+ 駝 ・ 鳥 +:礼儀作法について

「論壇系」のブログで見られる議論の方法と違うやりとりが、「メンタル系」のブログには見られるという話である。

「メンタル系」というのがどういう所なのかは私にはわからないが、ここに描写されている対話のあり方には、非常に共感を覚える。


参加者は、お互いにどのような日常生活を送っている人間であるのかについて、あるいはお互いがどのような関係であるのかについて、目に見えないネットの向こう側の他者の像を求め、目をつぶって象の背中をなでるようにして言葉を探してゆくのである。他者への想像力と自らの魂の救済のあり方は表裏一体である。自らの魂に深く問いかける者たちが問いかける仕方を通じて、他者への思いを馳せ、それが共鳴したとき、それがコミュニケーションの作法となって立ち現われてくるようにみえる。


「なぜAはBを傷つけるのか」といったことを、検事が表層的な犯罪動機を解明する仕方とは全く異なる仕方でAの心の深いところを時間をかけて探ってゆく作業をしている点で、わら人形うちとは似ても似つかない行動といえるだろう。彼らは結論を決して急がない。しかし、メンタル系の掲示板でのこうした行動は、私にはむしろ、祈りに近い行動に思われてならない。癒しと和解への祈りである。

「検事が表層的な犯罪動機を解明する仕方」という表現から、自分の「援助」と「断罪」の技術という記事を連想した。

人間として私は、こういう対話のあり方に共感し、ネットワーカーとして私は、それが非常にあやういものであることに危惧を覚え、技術者として私は、このような対話が安定的、永続的に続くようなシステムの構想を模索する。

その結果、これは波動関数的な欲望と似たような問題であると思い、あきらめる。閉じたグループだけの場を提供するのは簡単だが、それではこういう対話は起こらないだろう。開いていて同時に閉じている場が必要なのだと思う。

技術者の私の断念によって、ネットワーカーの私は、こういう場の危うさを再認識する。

例えば、このエントリーに「メンタル系」ブログへのリンクがあったら、私はこの記事にはリンクしなかっただろう。ここから、swan_slabさん経由で「論壇系」のメンタリティーのアクセスが殺到し、その場を壊してしまうことを恐れるからだ。

こういう対話の存在を知らせたい私と、こういう対話の存在を隠したい私が同時に存在している。ネットワーカーの私の危惧によって、人間としての私はそれを実感する。波動関数的な自分を感じることによって、まだ見ぬ「メンタル系」ブログの人たちへの共感が少しだけ深まる。