ネットというリンクでアレントが華麗に舞う

アレントニュートン力学は似ている。どちらも、本質のみを扱う抽象的な理論である。

「等速直線運動にはエネルギーがいらない」と言われて、まっすぐに同じペースで歩いてみると、疲れて腹が減り、「話が違う、エネルギーがいるじゃないか」ということになる。

ニュートン力学が日常生活で実感できるのは、スケートリンクの上くらいであって、ここだと、力を受けない限り物体は等速直線運動を行ない、そのまま壁に激突して鼻血が出る。「角運動量保存の法則」と言われてもなんのことかわからないが、スケーターがくるくる回って、身を縮めると回転速度が上がることだと言われると、わかった気になる。

速度、加速度、力、仕事、エネルギー等の概念を教えるには、スケートリンクの上で授業するのがいいと思う。そうでないと、ニュートン力学は生活とかけ離れた抽象的な話になってしまう。

ネットをやっている人には、アレントの「公的領域/私的領域」および「労働/仕事/活動」というキーワードは、すごく実感のある概念だと思う。ネットが無い時にアレントはそれを言おうとしたから、本が思いきり難しくなってしまったのだ。

今だったら、例えば、「言論と活動における行為者の暴露」などとは言わず「記者ブログ炎上」と言うのではないだろうか。アレントは、公的領域が理想的なものだと言ってなくて、「whoを晒される」場所であることの怖さについても語っていると思う。そういう怖さがあるけど「わかっちゃいるけどやめらんない」のが言論であって、当然、「そういう覚悟はしておけ」という話になる。アレントが言う「人間の条件」とは、ひとつには、人である限りはその覚悟が必須であるということだ。

自分を射程の外において、客観的に論じるのは、アレントの言葉では「仕事」、つまりエンジニアリングの領域の話である。エンジニアリングというものは永続性を志向していて、大なり小なり万物流転する自然に対する侵害となる。それを人に向けるのは失礼になるので原則禁止である。

人様にモノを言うなら、逆照射を受ける「言論」の場に出るべきだ。意味と間主観性的な正しさはそこで発生する。

もちろん、アレントは根本的な分だけ浮世離れしている。そのまま立身出世に使えるものではない。ニュートン力学でカーブが曲がることを説明できないのと同じだ。

しかしここで、現実に合わないからと理論をいじってしまうのはダメ。「カーブが曲がるのは物体の回転によってコリオリの力が働くからだ」等と言ってると、せっかくシンプルなニュートン力学が複雑怪奇になり最後はトンデモになる。

アレントにケチをつけるなら、逆にもっともっと浮世離れして一般化した政治哲学を作るべきだと思う。アインシュタインと同じことを志向してないなら、アレントを直接いじらずに、アレントを基盤にして別の理論、別の言葉を作る方がよい。カーブの曲がるのを説明する為にニュートン力学を変更する必要はなく、「空気力学」という別の理論が必要なことと同じだ。別の体系が必要になったからって、ニュートン力学が悪いわけでもおかしいわけでもなくて、宇宙空間に出れば、そんなものはいらないから安心していればよい。

とりあえず、ブログというアリーナでは、ベタにアレントを適用していいと、私は思います。