ブログがブロガーを逆照射するの理論

(ブロガー)---(ブログ)-->(言及先)

で、ブログは言及先について語るものだと、ついこの間まで思っていたが、実は

(ブロガー)<--(ブログ)-->(言及先)

であって、ブログはブロガーを逆照射して、言及先と同時にブロガーについて雄弁に語る。

これはブログに特有の性質ではなくて、言論というものの本質であり、コメントやトラックバックはそれを(不完全ではあるが)可視化したものである。

アーレントの「人間の条件」には、その名もズバリ「言論と活動における行為者の暴露」という章があって、そこで次のように言っている。


その人が「なに」(what)であるか--その人が示したり隠したりできるその人の特質、天分、能力、欠陥--の暴露とは対照的に、その人が「何者」(who)であるというこの暴露は、その人が語る言葉と行なう行為の方にすべて暗示されている。
それを隠すことができるのは、完全な沈黙と完全な消極性だけである。

つまり

(ブロガー)---(ブログ)-->(誰かのwhat)

というかたちで誰かについて客観的に語ることは可能で、たまたまその誰かがブロガー本人だったということもあり得る。この場合は、何を見せて何を隠すかをコントロールできる。

しかし、言論にはこれと違う「whoの暴露」という側面があって、これは無くすこともコントロールすることもできない。


それどころか、確実なのは、他人にはこれほどはっきりとまちがいなく現れる「正体(who)」が、本人の眼にはまったく隠されたままになっているということである。
ちょうど、これはギリシア宗教のダイモンの如きものである。
ダイモンは、一人一人の人間に一生ずっととりついて、いつも背後からその人の肩を眺め、したがってその人が出会う人にだけ見えるのである。

「実は私は迂闊な男です」と白状したつもりが、そこが良い味と言われて、「なんだバレバレだったのか」と思うのだが、やはりみなさんには私のダイモンが見えていて、自分には見えてないなあと実感する。

もちろん、「そこにダイモンがいる」と指差された先を見ても、私にはやっぱり何も見えないのだが、それが楽しくてブログをやっているである。