「マイナーにとっての負荷」再び

ほぼ一年前に書いたマイナーにとっての負荷という記事で触れた、workshopさんの言葉


この一連の動きの中で、(賢明なessaさんはほぼ確実に気づいていますが)明らかにアウトな行動は、ハッカー文化などではごく日常的なことば、「もし間違っているなら、具体的なソースを示してどこがどう間違っているか教えてください」という言葉が、マイナーの側にとっては「とんでもない負荷」であることが往々にしてあることに配慮が足りなかったことです。

これが、このBLOGを始めてから、私にとって最も痛烈な批判であると私は感じています。その時もかなりショックを受けたのですが、後になってボディーブローのように効いてきました。

同時に、ここでmhattaさんから


ハッカーによるマイナーイジメ」というのがどうも良く分からないのです。

という質問を受けて、これについてもその時からずっと考えてきたのですが、なかなか考えがまとまりませんでした。いつか、これについて書こうと思ったまま気がついたら1年が過ぎていました。

それが、最近いろいろ考えている中で、アーレントの言葉を手がかりに(ようやく)少しだけ形になりました。mhattaさんのコメントに1年遅れで回答したいと思いますが、それは次のようなことです。

私にとってウィルバーが言う間主観性」の領域の正しさは、アーレントの公的領域のリアリティに相当します。つまり、

  1. 万人に開かれているもの
  2. 人々の間にあるもの(すべての人がいつも同一の対象に係わっている)

という二つの条件を満たすものです。

そして、オープンソースの(効率性でなく)正しさという側面や、ハッカー倫理は、この基本条件をかなり理想的に具体化したものだと思います。

では、マイナーの側がこれに関わる時の「とんでもない負荷」とは何か。

それは、「私的領域」が侵害されることではないかと思います。

アーレントは、「公的領域」の全ての側面が公開されているべきだと強調する一方で、「私的領域」が閉ざされ隠されていることも同様に重視します。隠されている領域が無ければ「公的領域」も存在し得ないわけで、「私的領域」は物理的な侵入や社会的な不利益から守られるべきなのは当然として、そもそもそれが公的な目に晒されること自体が「とんでもない負荷」なのです。

そう考えると、workshopさんの指摘は、「公的な議論の土俵に乗せるものは、慎重に私的領域から切り離されていなければならない」と読みかえることができます。このことは、(例えば日本の国会のような)利害関係の調整にしか過ぎないような議論より、「公的領域」の性質をより良く実現したオープンソース的な議論の場において、より一層注意しなくてはいけないことになります。

これは、ある意味では、言い換えに過ぎません。「公的領域」「私的領域」という概念が何なのか?その区分が正しいのか?という謎が出て来るわけで、それは私にとってもまだ謎の多い所で、うまく説明できません。ただ、一般の議論より、ハッカー倫理の中での議論、オープンソースの中での議論において、より一層注意すべき点、配慮すべき点があるという点で、自分としては一歩前進だと思います。

「公的領域」あるいは「ハッカー倫理」あるいは「オープンソース」が良いもので重要なものであることには、当然、私も疑いはないのですが、そのよって立つ基盤について深く考えることで、限界が見えてきて、その限界を知ることで、よりうまくそれを使うことができると思います。「オープン」の背後には対となる「クローズ」が必ずあるはずで、ある観点からは「クローズ」が「オープン」の基盤になっているわけです。

オープンソース間主観性に関わる場合には、その「クローズ」の部分に意識的でなければならないと思います。それが何なのかはわからないけど、何かがあるはずだと私は思います。その「クローズ」が何なのかを、これから考えていこうと思っています。

このようなことをずっと考えていたのですが、mhattaさんのオープンソースの構造と力のレジュメを見て、かなり共振する部分があるように感じて(勝手読みかもしれませんが)、とりあえず、1年越しの宿題に回答してみようと思いました。