創発する無数の遠近法

アーレントは、人間の条件の中で、公的領域には、次の二つの意味があると言っています(p75 公的領域)

  1. 第一にそれは、公に現れるものはすべて、万人によって見られ、聞かれ、可能な限り最も広く公示されるということを意味する。
  2. 第二に「公的(public)」という用語は、世界そのものを意味している。なぜなら、世界とは、私たちすべての者に共通するものであり、私たちが私的に所有している場所とは異なるからである

そして、これを金銭的評価のような単一の尺度による客観的な評価と対比して、次のように言います。


公的領域のリアリティは、これとまったく異なって、無数の遠近法と側面が同時的に存在する場合に確証される。なぜなら、このような無数の遠近法と側面にこそ、共通世界がおのずとその姿を現すからである。しかも、このような無数の遠近法と側面にたいしては、共通の尺度や公分母をけっして考案することはできない。なぜなら、なるほど共通世界は万人に共通の集会場であるが、そこに集まる人びとは、その中で、それぞれ異なった場所を占めているからである。

三度繰り返される「無数の遠近法と側面」という言葉は、まるでBLOGの出現を予測していたようです。


共通世界の条件のもとで、リアリティを保証するのは、世界を構成する人びとすべての「共通の本性」ではなく、むしろなによりもまず、立場の相違やそれに伴なう多様な遠近法の相違にもかかわらず、すべての人がいつも同一の対象に係わっているという事実である。

「多様な遠近法」は、人びとの中に最初から存在しているわけですが、それが「同一の対象に係わる」為の仕掛けがあって、「公的領域」を可能にするわけで、これもまさに、互いにリンク、トラックバックするBLOGのことのようです。

このように、BLOGには、アーレントが「公的領域」と呼んだものの本質が含まれているように、私は感じました。

自分が書いた「創発的権力」に関する記事が、アーレントの「大衆社会」、「社会的領域」という概念に通じるものがあるなあ、と思って、ちょっと読みかえしてみたのですが、やはりかなり近かったです。

アーレントは、単一尺度による決定的システムである「私的領域」と「無数の遠近法」による創発的システムの「公的領域」の区分を重視します。そして、経済によって政治的課題が決定されていくこと等を「社会的領域」の勃興として、否定的にとらえます。経済のように「私的領域」で使われるべき論理が、「公的領域」に関わる領域で使われることを、「社会的領域が公的領域と私的領域の両方を侵食する」というような表現で人間性の破壊であると否定的に見ています。

経済を決定的システムと見るのは時代遅れと思われるかもしれませんが、これは「マクドナルド化」等という現象を予見し、それを包含した問題提起でもあると私はとらえています。

私が使う「創発的権力」という言葉は、「社会的領域」の延長線上にあると思います。私は自分でもあいまいなままこの言葉を使っていますが、私の記事に対して、何人かの人が、創発的権力=社会的領域=2ちゃんねる VS 公的領域=BLOGという対立関係として受け止めるべきだという(そう解釈できる)指摘をしています。

ポイントは、創発というネットの最も重要な性質が、アーレントの議論の中での「社会的領域」と「公的領域」のどちらに帰属するかということかもしれません。

現状では、GoogleAmazonは「社会的領域」、BLOGが「公的領域」に属し、2ちゃんねるはその中間あるいは混合でしょう。しかし、これはまだ流動的でどうなるかわかりません。BLOGが、例えばSNSのような外部のサービスに統合されることで、単一尺度による利便性が重視され「無数の遠近法」という側面を失なっていくことも考えられます。私は、その可能性はかなり高いと見ています。