essa左巻き宣言

筑紫哲也氏が「ネットは便所の落書き」発言をした時に、私は、オープンソースジャーナリズムという文章を書いて、


ただ、彼(筑紫氏)が今後、こういう現実を見つけることができるのか、そして、見つけてからどういう判断、どういうコメントをするかは興味深い。

と言いました。5年半たって筑紫氏が、ものが言いにくい世の中と発言したと聞いて、ようやく彼は「こういう現実」にたどりついたのかと思ったわけですが、これは早とちりだったようです。ソースを読むと、これは要人暗殺等のテロによる言論封殺を指して発せられた言葉でした。しかし


戦後60年で戦後を精算しようという動きがいろいろありますが、どこに向かおうとしているのか、それが戦前のような自由にものが言えない、表現ができない時代に戻るのだとしたら、私は戦後の60年の方がまだましだと思います。

この「戦前のような」「いろいろな動き」の中のひとつとして、2ちゃんねるがリードする世論の右傾化ということを、筑紫氏は意識しているのではないかと私は感じます。(期待をこめてそう思っています)

彼がそこをきちんと言葉にしてくれたらツッコミがいがあるだろうなと、私は思うのです。ネット世論は、なぜ「自由にものが言えない」雰囲気を作るのか。

それは民主的でないから?

いえ、ほとんど誰でもネットにアクセスし、2ちゃんねるに書きこみ、ブログを立てることはできます。しかも、その人の財力、名誉、地位等一切関係なく、評価されるのは背後関係を抜きにした「言葉だけ」です。そして、その評価システムは多重化されていて、評価システム自体も評価されていて進化し続けています。

それは理性的でないから?

いえ、ネット上の言葉は、テレビと違い、発せられた瞬間に記録され、たくさんの人によって、さまざまな視点から時間をかけて吟味されます。残るのはそういうフィルターを通った言葉だけで、発言力のある人の言葉は、より一層厳しく過去の発言との比較の上でチェックを受けます。

それは論理的でないから?

例えば、放送法は悪法で圧力はあったので朝日は嘘つきと私は言いましたが、「放送法は悪法で圧力はなかった」と言っている人もいるだろうし、「放送法は明解で圧力はなかった」と考えている人もいるだろうし、「放送法は明解で圧力があった」という前提から議論を進めている人もいるでしょう。あるいは、これと全く違う枠組みで考える人もいるでしょうが、そこにもいろいろ選択肢があるとしたら、それぞれの立場で考える人がいます。網羅的に分散した議論が基盤となって、その中の最良のものが浮かびあがってきて、形になるのが「ネット世論」です。そこには、緻密で論理的なプロセスがあります。

私は、筑紫氏にこの先を行ってほしいと期待します。筑紫氏でなくて他の誰でもいいのですが、「2ちゃんねるは、非民主的で非理性的で非論理的だから正常な世論ではない」という議論の先を行ってほしい。

なんで、そう思うかと言うと、これが驚いたことに最近気がついたのですが、私は左巻きの人間だったようです。何年間も朝日新聞の嘘に怒っているうちに、自分を見失っていたのですが、「朝日、今度のはもうこれでダメだろ」と安心したとたんに、左巻きの本質が表面化してきました。朝日新聞が復活したら、私も元に戻るかもしれませんが、そうでなければ、これから私は左巻き、プロ市民系に移行して行くような気がします。

それで、では、2ちゃんねるネット世論についてどう考えているかと言えば、2ちゃんねるは、民主的で理性的で論理的だと思います。ネットにおける世論形成は、過去のどのようなシステムと比較しても、最も民主的で理性的で論理的だと思います。それが問題なのではなくて、それが問題なのです。

民主的で理性的で論理的だからこそ、ネットは危険なのです。

民主的で理性的で論理的なものがいいと誰が言ったんですか?

民主的でない政府より民主的な政府がいいし、理性的でない人間より理性的な人間が信頼できるし、論理的でない議論より論理的な議論が安心です。しかし、よいものを三つ集めて極限にしたら一番よいものができる必然性はない。

そこにネットの危険性があって、「ものが言えない世の中」が生まれつつあるのかもしれません。私が宮崎アンテナで受信した電波に書いてあった「ハウルの獣性」というのは、このことではないかと思います。

安倍さんは、ネットが民主的で理性的で論理的だと言うことを、かなりよく理解しているようです。だから油断がならないと思います。