アジャイルな公共性

ネットには構造的にひとり勝ちの傾向がある。つまり、あらゆるジャンルでひとつのサイトが独占的な地位を得る傾向が、経済的な法則として組みこまれている。

そして、勝ち残るサイトは、最も俊敏なサイトだ。世の中の動きに最も素早く対応できるサイトが生き残り、そのサイトが収穫逓増の法則に従って、独占的な地位を得る。

誰もが共通にひとつのサイトに頼るのだから、そのサイトには公共性が求められる。

しかし、公共性に関わる言説は、概してアジャイルではない。言論の自由とか三権分立とか人権とか、そういう公共性に関わる概念は、どれも長い時間をかけて熟成されてきたものだ。

ひとり勝ちするサイトは、たいてい柔軟で開かれているけど、新しい公共性が熟成するのを待てるほど気長ではない。閉じているから公共性を拒否するのではなく、アジャイルであるから公共性を拒否する。

公共性が硬いのは、たくさんの敵と戦ってきたからだ。敵からの攻撃に備える為に、公共性は多くの鎧を身にまとい、固く堅く硬く難くかたくなってきてしまった。

今すぐに、公共性を解きほぐすことが必要だ。

そこで僕は、公共性に対して、ナラティブセラピーを試みる。公共性がやわらかい自分を取り戻せるように、辛い過去の歴史について語ってもらった。

すると、公共性はかって自分が「愛」であったことを思い出し、かくして僕はアジャイルな公共性を取り戻したのだ。