日本軍は日教組のようなものという仮説

南京事件について考えてみようと思ってあちこち見ているけど、なかなか自分なりに納得できるスタンスが見つけられない。結論は出てないけど、断片的に考えたことだけをメモしておく。

レイヤーの整理

これについて考えにくいのは、いろんなレイヤーがごちゃまぜになっているからだ。つまり、これについて語る人は、以下の点全部について一度に話そうとする。

  • 事実: 歴史的事実として何があったのか(歴史)
  • 評価: その善悪をどう評価すべきか(倫理)
  • 行動: それを受けとめて我々は何を思い、どう行動すべきか(政治)

どの問題も、簡単に誰もが納得するひとつの答えが出ることではないけど、これは別々のレイヤーに属することで、それぞれのレベルで、頭と心を違う方法で働かせるべきことだと思う。論争が続くのはいいんだけど、各レイヤーごとに論点を整理することはできないものだろうか。

過去50年の中の人は何をしてたのだ

過去50年、これに関わる人たちがやったことはあまり我々の役には立っていない。むしろ、マイナスになっていることが多い気がする。一致点が見い出せなかったことを責めているわけではない。「事実」と言っても、歴史的な事実をどのように確定すべきか、できるのかということは、歴史学者の間でも方法論について完全なコンセンサスがあるわけではないので、いろいろな立場があることはしかたない。

しかし、「全員が最善を尽くしてもどうしても分かりあえなかった。これが我々の限界だ。どうしようもなかったのだ」と言われて、「ああそうですか。お疲れさまでした。あとは我々が引き継ぎます」と言えるような状況ではない。どちらの立場にも私利私欲で嘘をついた奴がいて、他に私利私欲で日和った奴がたくさんいて、ただでさえ難しい問題を余計混乱させている。俺たちは、必要以上の混乱の中に立たされて、前の世代の尻ぬぐいをさせられている気がする。

南京で自分を語るな

考えながら、思い出した二つのエントリー。

二つ合わせて、「南京で死んだ人と今の自分を交換しても納得できることを言うべきだ」と考えた。

自分が言いたいことを南京にかこつけて言うのは最低だ。自分が南京で死んだ人だったら、それは頭に来ると思う。戦争をリアルに想像すること、南京で死んだ自分を想像することは難しいが、それくらいはわかる。

日本軍は日教組のようなものという仮説

「南京で自分を語るな」を自分にあてはめると、自虐史観=サヨク=日教組=先生への恨みという問題にぶちあたる。自分のサヨク嫌いは生理的なもので条件反射ができてしまっている。どうしても対立する二つの立場を公平に見ることができない。おそらく何を言っても、南京にかこつけて、自分の怨念を語ることになるだろう。

だが、これを中和するひとつのアイディアを思いついた。「日本軍は日教組のようなもの」と考えるのだ。

自分の人生経験で、人間の嫌な面を一番多く見せつけてくれたのは、学校の教師だ。理念と組織の陰に隠れて、人の為だと言って、自分の欲を満たそうとしている人間は、教師しか見たことがない。社会人になって強欲な人間や傲慢な人間や無責任な人間をいっぱい見たけど、教師のように嫌なにおいの奴はいなかった。もっとさわやかな悪人やさわやかなダメ人間たちだった。

もちろん、中にはまともな人もいたけど、そういう先生は学校という組織の中では無力だった。そして、学校という組織は、誰の責任でもなく生徒にとって残酷だった。そういう匂いやそういう力学を朝日新聞の中に見るから、俺はサヨクが嫌いなのだ。

それでもし、日本軍が同じような理念と組織を背景にして、個人の悪意をはるかに超えた悪をしていたとしたら、つまり、「日本軍は日教組のようなもの」と考えると、とたんに、俺は自虐史観の支持者になってしまう。

あの時、教師にもっと多くの暴力を行なえる権限が与えられてたとしたら何が起きたか。そう想像することで、南京で行なわれたという暴力が突然リアルに見えてくる。そして、それを教師たちが振り返る時、どのように巧妙に嘘をつくかを想像すると、なぜ真実が明らかにならないのかも理解できてしまう。教師と言うものは自分に嘘をついて主観的には親切のつもりで生徒をいじめるからタチが悪い。そういう嘘は本当にわかりにくく人に深い傷跡を残すものだ。

南京大虐殺論争 - Wikipedia

今まで見た中で、これが一番中立的に見える。出発点としては最もよい資料のような気がする。

もちろん「中立的」というのは、ひとつの価値判断であることを忘れてはいけないけど。

(追記)

outisさんから、大変、示唆に富んだフォローをいただきました。ぜひ、合わせてご覧ください。