「Antinny事件の後始末問題」にヴェーバーを実践的に応用してみる

京都府警が今一番注力しているのは、Antinny事件の後始末より


ピュアP2PであるWinnyネットワークにはサーバーも存在せず、いったん流れ出た情報を回収するのは不可能に近い。だが面目を非常に重んじる組織である警察にとって、内部資料が漏洩した状況を放置するというのは耐え難いことだった。

47氏の逮捕は誰がどういう理由で決断したのかが謎でしたが、この記事の内容から推測すると、外部からの圧力ではなく、「面目を重んじる」警察が自分自身で決断したようです。

内部資料漏洩で被害を受けた方には申し訳ない言い方ですが、あの資料は警察にとっても社会にとっても、そこまで重要なものではないと思います。この一連の捜査で、警察としてもかなりの人員を使っているだろうし、無理な逮捕が社会に与えた悪影響は多大なものになる。放置しておいても、この膨大なコストに見合うだけの実害はないでしょう。

警察の本来の機能(治安維持)を考えて、コストパフォーマンスを評価すると問題外。

それも大問題ですが、警察の立場に立って「生き残り策」として評価した場合どうなるでしょうか。警察は自分に与えられた任務より、共同体としての自己保存の方を優先していることは間違いない。その是非は考えずに、ただ単に、彼らの自己保存にとって、この方針はプラスとなるかどうかです。

技術的には非常に困難な課題に対して、警察の権力と組織力を駆使して対策しようということです。そこにはいろいろな無理が入りこむのは必然、おそらくそれは警察も覚悟しているでしょう。それによっていろいろな批判が起こるし、場合によっては敗訴や立件不可などの法的な反作用もあり得る。政治的な問題では、警察は常にそういう圧力に対しているわけですから、それを意識しないはずがない。

外部の目からは、苦労に見合うだけの収穫がないように思うのですが、そうではないんでしょう。そこには、彼ら独特の価値観があります。彼らにとって、この状態を放任するということは「ナメられた」ということになる。「ナメられて」黙っていてはシメシがつかない。だから、絶対にそれを許してはいけない。

それが彼らの共同体の中での最も重視すべき規範なのでしょう。ここを崩すと共同体としての求心力が無くなって組織が崩壊してしまう。それでは、警察の機能、任務も果たせなくなる。だから、多少の副作用はあってもとにかくそれを何とかしなくてはいけない。

そういう問題なんだと思います。

ここまでが認識論的主張、つまり「警察には共同体的側面が多大にあって、内部に独自の価値観を持っている。その中で特に重視されているのが『ナメられてはいけない』という規範。この規範に危機が生じるとそれを第一優先で行動する」という、「警察という組織はこういうものである」という主張です。

これは、「ナメられる」という言葉等をもう少し厳密に定義していくことで、定式化できます。そうすれば、今後の捜査の動きを観察し、過去の事例や他国の警察の捜査手法等と照らし合わせることで、証明/反証できます。

あるいは、堺屋太一さんの官僚批判の論理などと組み合わせることで、官僚組織全体に関する理論として発展させることもできます。

ここから規範的な主張を引き出すとどうなるか。それは、いくつかの方向性が考えられます。

一番ラディカルな方向は、こういう共同体的組織原理を完全否定して、「警察はあくまで本来の治安維持という機能のみを優先するべきだ」という主張。「治安意地」はやめて「治安維持」に専心せよという主張です。

もう少し妥協的な案としては、警察の「面目」を保つことに社会全体として協力しようという方向。警察に恥をかかせなければ、おそらく警察は技術開発や著作権のような、本来の任務を逸脱した問題に、ここまで積極的に関わってはこない。専門家の合意や法律の制定を待って、それに添って動くのではないか。組織の維持ができなければ、治安維持という任務が果たせないのだから、なるべくそこは尊重し、その代わりあくまで行政組織として立法に従属して動くよう求めるというもの。

逆に、ここをつつくと警察はもっと暴走するので、問題の資料を他のP2P等、ありとあらゆる手段で各所に放流して、挑発的なアナウンスを流してそれを嘲笑する、それに対する警察の発狂ぶりを見て楽しもうという、反社会的な主張もあり得る。

仮に、「警察の共同体化」という私の認識論的主張が正しかったとしても、この3つの主張の是非は、一意には決まりません。「どうすべきか」にはもっと他の考え方もたくさんあって、それは、価値観や人生観、社会観によって左右される。

私としては、上記の三つの案では最初の案です。行政組織の共同体化には反対で機能やコストパフォーマンス等の本来の任務に直結しない原理は排除すべきであるという立場です。

認識論は、このような規範的主張に対して、「それを徹底すると、現行機能している組織の求心力が低下し、能率の低下や倫理の退廃につながる可能性がある」という疑問を言うことはできます。そのような規範的主張に対して「共同体化を否定するなら、組織化原理をどう維持するのかについての代案が必要である」と言うことはできますが、主張そのものを否定することはできません。

逆に、規範的主張は、認識論に対して「共同体化が組織の求心力につながっているとは思えない」という反論をすることができますが、それは規範的な主張ではなくて認識論的な主張なので、「俺はこう思う」だけではなくて、概念を明確に規定した上で、データを示して実証的に反論しなくてはいけない。(認識論が最初にそれをしているものとして)

…などと考えて、「なるほど、ヴェーバーを使うと、議論の筋道が見やすくなるなあ」と実感しております。「価値自由」の概念を勉強して「認識論」とはどうあるべきかをもう少しきっちりすれば、もっとよくなるかもしれない。