アーレントとルーマン
山脇直司『公共哲学とは何か』合評会に参加することにしたので、これを読みはじめる。読みながらのメモ。
まず、アーレントという人の扱いが気になる。山脇さんは、この人に一定の評価を与えつつも、
失なわれた公共性を、複雑化した現代社会のなかでどのように回復していくべきかについての具体的な議論や戦略が、彼女の思想には見出されないのです。(P21)
とあっさり切り捨ててしまう。
ちょうどこの直前に、仲正昌樹氏の「『みんな』のバカ!」を読んでいて、それが今いちピンと来なかったので「『不自由』論」を再読していた。そこでもアーレントが出てきたので、関連CLIP。
人と人とは「話が合わない」のがデフォルト
というRirikaさんの意見に全く同意するのだが、アーレント(と仲正氏)はそこを哲学的に深く追求していて、これがWordscape―言景に
自己と他者の間になんらか共通するものがあるがゆえにコミュニケーションが成り立つのでは【ない】という、ルーマンのコミュニケーション観こそが今日の「公共性」を考えるうえで、きわめて重要であると考えています。
と述べられているルーマンに通じるものがあるような気がする。
山脇氏は、
公共性や公共世界は、分析や記述の対象であるばかりでなく、高度に規範性を帯びた価値概念でもある(p130)
とおっしゃっているが、ひとつの「価値概念」をあえて「公共性」として提示するならば、アーレントやルーマンを完全に論破しないとマズいような気がする。アーレントやルーマンがそこに手を出さなかったのは、「寿命が尽きた」とか「本が売れない」とか「知能が低い」等の非哲学的な理由ではなくて、普通に考えれば何か哲学的な理由があったと思うのだが、そこをきちんとつかまえて哲学的に批判しないといけないはず。
それを楽しみに後半を読むとしよう。