パブリック・フィロソフィの再構想


多くの大学で支配的な「社会科学」と「人文学(humanities)」の不当な境界づけは、緊急に打破されなければならない。


このいわば学問界に引かれた「鉄のカーテン」を破ったとき初めて、社会科学と人文学は、社会的な自己理解や自己解釈を十分に主題化でき、社会という世界で「事実」と「価値」がいかに密接に融合しているかを認識しうるだろう。

禿同なのですが、こういうことを言うと、記識/2004-06-25/公共哲学? - The use of pleasureにあるように、


なんか、「公共哲学こそがさまざまな知の領域を横断しうるトランスディシプリナリーな学問である」みたいな物言いだな。そしてそれによって「専門主義(タコツボ)的学問体制の改革も可能」になるときたもんだ。まるで19世紀末の統合社会学の勃興時を目の当たりにしているかのようだ(失敗したけど)。

という風に批判されちゃうわけですね。はやくスペックくれよ〜チンチンで私が言っていた


このような学際的な問題提起は物議をかもすものですが、それは、そのような論議が「○○は××のサブセットである」というような言明を含むからだと思います。それに対して「××の方こそ○○のサブセットである」という反論がかえってきて、食うか食われるかの論争になるわけです。上の二つはほんの一例で、こういう論争は古今東西無数にあると思います。

というパターンの典型的な例ではないかと思います。山脇直司氏は人文系の専門の方のようですが、それでも痛烈に批判されている。この批判を見ると、内容は私にはほとんど理解できないですが、雰囲気的には山脇氏の文章はスキだらけで記識さん(でいいのかな?)の批判の方が正しいように見えます。まして私のような素人が屋上屋を重ねても


あまりの粗雑さとあまりの無意義さに( ゜д゜)ポカーンと

されてしまうだけだというのは、最初からわかってます。

なんで、あえてそういう馬鹿なことをやるかと言うと、技術者としての社会的責務からです。

「パブリック・フィロソフィ」とか「トランスディシプリナリーな学問」なるものを、私が求めているわけではありません。どうも、現代社会というかネットというかそういう何かがそれを要求してるんです。

私が自信を持って自分の専門分野だと言えるのは「デジタルデータ」の性質だけです。「デジタルデータ」というやっかいで変なものと商売として長年つきあってきて、その性質について体で分かっている所がある。それがどうも、「パブリック・フィロソフィ」を欲しがっているんですね。

我々は、経済的基盤とかプライドとか職業生活とかいろんなものを「デジタルデータ」に依存するようになっている。カード番号を盗まれると財布を盗まれたみたいに大変だし、盗撮されたビデオを流されたら公衆の面前でそれをしたみたいに恥ずかしいし、サイトを作りサイトを運営することが商売になっている人もどんどん増えている。

「社会」が「デジタルデータ」にのっかってきているわけで、私は「社会」の専門家ではありませんが「デジタルデータ」の専門家です。「デジタルデータ」については思う所があって、それを言いたい。「経済的基盤とかプライドとか職業生活とかいろんなもの」が「デジタルデータ」になれば、一瞬でコピーできるしサーチできるし分析できてしまう。

先日、試算してみましたが、PSX1000台で日本中のテキストデータがほとんど入ってしまいます。10年たったら、おそらく国民全部の大半の社会的活動がパソコン1台に入ってしまうわけで、「パブリック・フィロソフィ」がアルゴリズムとして提示されれば、それは実現されてしまうんです。あらゆるタコツボを変換ツールにかけて連結したり比較したり合成したりができるようになってしまいます。それはただのデジタルデータでしかなくて「そんなものに俺という存在が集約されてたまるか」とおっしゃる人もいるでしょうが、気がついたらそのただのデジタルデータこそが自分だった、そういう日が10年で来るんではないでしょうか。

だから、私は「今からパブリック・フィロソフィを作れ」とか、まして「俺様の作ったこのパブリック・フィロソフィにみんな従え」とか言いたいわけではありません。「パブリック・フィロソフィ(のようなもの)がもうすぐ実体化しますけどどうしますか?」と言いたいわけです。「デジタルデータとしての我々を縛るアルゴリズムは可能だしそれを止める手段はないんですけど、少しでもましなパブリック・フィロソフィを作っておかないとマズいんじゃないですか」ということです。この文章の前段は「デジタルデータの専門家」として断言しますので非専門家の異議は受けつけません。(だから逆に、ここをもっとうまく言う義務が自分にはあると思いますが、それがなかなか難しいんですね)。後段については、確かに素人のタワゴトだと思うので笑われてもしょうがないんですが、なんかもっといい言い方はないですかね?

(追記)

ひとつ具体的な設問を思いつきましたが、山脇直司さんみたいなガイジンがGoogleのアドバイザーになって、Google八分の刑を改良して理論武装して「これがパブリック・フィロソフィーの具現化だ」とか言ったら、それが学問的にどんなヘタレだったとしても、みんなその山脇さんモドキの言うとおりにするしかないんですよ。その時には、たぶんWEBだけではなくて、購買履歴もメールもソーシャルネットワーキングも全部「むこう側」にあるんだし。

つまり、荒川区の事例みたいなことが(あれを「ユング」と言われると腹立つのですが、一応ガクモンが行政を動かしたという意味で)、世界的な規模で起こったらどうするの?ということです。

その改良版「Google八分の刑」の思想は、例えばGoogleが提案するプロトコルの仕様の中に隠されていて、技術の皮をまとったその思想の中に哲学的な不備を見い出して、それによって国際的に市民運動を連携してGoogle株主総会の決議を動かさなければならない、みたいな事態が充分考えられるわけです。

Winnyでその練習をしておきましょうと、私は提案しているのです。