essaは蓋然主義か確実主義か?

はやくスペックくれよ〜チンチンWinnyが要請する知のバトルロワイヤルという二つの関連する文章について、対照的な二つの反論がありました。

文系ロジックさんの「蓋然主義と確実主義」という言葉を借りて図式化すると、文系ロジックさんは、私を「確実主義」者として批判されているように見えて、NetWindさんは逆に、私の「蓋然主義」を批判しているように見えます。どちらに軌道修正したらいいか、お二人で決めていただけないでしょうか。

NetWindさんのもうひとつの論点である「イメージをぶつけあう議論」の意味は何かということですが、このお二人が、こうして私のブログを中継点にして出会っているということは、私としては自分の書いた記事には意味があったと考えています。

私としては、「蓋然主義」の人と「確実主義」の人で、もっと議論をしてほしいのです。ですが、両者はなかなか話が噛み合わない。文系ロジックさんとnetwindさんがお互いのブログを見ていたとしても、議論する手掛りが無くてコメントをしようという気にはならなかったのではないでしょうか。このお二人を出会わせる為には、何とおりにも解釈できる私のあいまいな文章が効果があったと私は考えます。

明解に書いたらどちらかの立場と同じになってしまって、もう一方からは「あちら側の人」とされて、無視されてしまったでしょう。少なくとも、このような抜きさしならない衝突は起こせなかったと思います。どちらも、私の書いたものをきちんと読んでいただけている(と私には思えます)のに、全く正反対の批判をされているわけで、これだけ明解な議題はないでしょう。

私としては、自分は中道のつもりなので、社会科学(netwindさん)あるいは社会系分野(文系ロジックさん)における「蓋然主義と確実主義」の是非についてお二人に議論していただいて、漁夫の利を得ることにします。ひょっとしたら、両者意気投合して「悪いのはessaだ」という結論が出るのかもしれないですが、それはそれで価値あることだと思います。

本格的な議論は、お二人(とそれぞれのサポーター)にまかせたいと思いますが、まずは、自分なりにそれぞれの問題について答えておきます。

まず、NetWindさんの批判から。


僕には、essaさんのように自然科学や工学に精通され、モダンな科学の強力さをものすごくよく分かっている方が、社会の問題になったとたん、そのことを忘れてしまったかのように、考え方を変えてしまう理由がよく分からない。

「精通」はしてないですが、「モダンな科学の強力さ」はよくわかっているつもりです。その成果には非常に敬意を持っています。だから、ゲーム脳とかマイナスイオンのように、「モダンな科学」の方法論にきちんと立脚していないで、「モダンな科学」のフリをして、その権威を濫用するような言説には、私はかなり批判的です。

社会科学の分野でも安心社会から信頼社会へ(内容はこちら、私の言及はこちら)などは、「モダンな科学の方法論」にのっとった素晴しい成果だと評価しています。(上記の言及からはわかりにくいですが、これは厳密にコントロールされた社会心理学的な実験結果に基づいた本です)

ただ、科学の方法論には重大な欠点があると思います。科学というのは、特定の領域を設定して厳密なモデルのもとで検証可能な仮説を検討するものだと理解していますが、どのような「領域」に科学の方法論を適用すべきかについてだけは、科学的に検討することができません。それが科学の唯一で重大な欠点だと思います。

社会科学の分野では、常に価値判断が先に来て、「科学的な方法論」と言えども、そこから逃れた中立的な議論はできないと思います。上記の山岸俊男氏の研究も、単純に厳密な再現可能な実験結果から有用な結果を得たということではなくて、問題(領域)の設定の仕方と、その背後にある山岸氏の観察眼に感銘を受けたということです。

HSKIさんのインフラは中立がよいという記事についても、同じ問題点が隠れているように思います。


具体的に言えば、P2Pにおける情報の受信・発信は、利用者がそのつど、実名・匿名を選択できる余地を残しておくべき、となります。

この主張に、私は基本的に同意しますが、「この方針が中立である」という言明は中立的ではありません。それは、ひとつの価値判断を含んでいます。実際に、「選択を許したら全員が匿名を選択するので望ましくない、それを許容するような設計は非常に過激なもので中立とは言えない」という主張もあり得ると思います。

こういうことは、実現の可能性も含めて、もう少しブレークダウンしてきめ細かく議論すべきだと思いますが、どのような設計にも価値判断が含まれている、従って、それは倫理的、政治的な議論の対象であるということを、意識すべきだと私は考えます。これまでは、多くの場合に「中立的」「客観的」な選択があったのですが、それは、単に「何が中立であるか」についての合意を取ることが容易であっただけにすぎません。

電網山賊さんが、興味深い例をもとに似たような問題(システム設計が内包する価値判断)について考察されています。

それで、私の立場は、id:pavlushaさんやanonymさんや文系ロジックさんに近いと自分では思うのですが、この三人の方から、(それぞれ言葉の強さは違いますが)同様に、「essaは性急な価値観の一元化を迫ろうとしている」と見られているようです。

誤解と言えば誤解ですが、これもある意味、私の意図した所でもあります。

Winny事件より前に何度か、私はP2Pのプログラムを書こうとしたことがあります。その時は、技術的な難易度と自分の能力を検討して(他のさまざまな理由もあって)断念したわけですが、状況が変われば、また挑戦してみようと思うかもしれません。また、当然、今現在それを書いている人たちもたくさんいるはずです。

そういうP2Pのプログラムを書こうとするプログラマにとって、これは具体的な問題であることを理解してほしいと思います。P2Pのプログラムを書こうとしたら、思想信条と関わりなくひとつの確実な答を求めなくてはいけない。その答は、プログラムの仕様であると同時に、かなり深く我々の価値観や行動に関わるものになると思います。それを技術者にまかせておいていいんですか?と問いたいのです。

「適用に関する解釈問題」(anonymさん)、「互いに相容れないことの多い価値基準の相違」(pavlushaさん)、「わかりうる限りの生起可能性を発掘する」(文系ロジックさん)というようなものを「マイクパフォーマンスにすぎない」と切って捨ててしまう傾向は、技術者には強いと思います。この記事で引用した、netwindさんやHSKIさんは、社会的な問題についても素晴しい意見をたくさん出している方で、非常に柔軟で多面的なものの見方をする人だと思いますが、それでもここに引用したように、そういう傾向が無いとは言えません。

実際に、P2Pについて政策や法律を検討している人の中には、このお二人や私よりずっと偏狭な「確実主義」に偏った人がたくさんいると思います。そういう人たちは、「客観的で中立な観点から技術的な問題に科学的な答えを出しただけだ」と言うでしょうが、そこには多くの価値判断の押しつけが含まれているのではないか。Winnyに関して、47氏の件が判例として残ったり、関連する法律が制定されたり、技術者同士がP2Pガイドラインのようなものに合意したりすることは、そういう問題だと私は思います。

プログラムの制限事項を決めることが、なぜ価値観や社会に関わる問題になるのかということが、自分でもきれいには説明できないのですが、ごく単純なことだけ言うと、我々の生活がネットに依存してネットを活用することになると、そういう傾向が強まるだろうということです。そして、ネットは社会の流動性を増大させ抵抗を弱める働きもありますので、ある一点を超えた所から、加速度的にそういう傾向が表面化してくるのではないか、そして、Winny事件で我々はその分水嶺を超えたのではないか、私はそんなふうに感じていて、「蓋然主義」の人たちの危機感の薄さが非常に気になっています。

もし、私がP2Pのプログラムを書こうと思ったら、その瞬間に私は「確実主義」者に転向してしまうのではないか?そういう危機感は確かに私の中にありますので、今のうちに、「確実主義」者として私をどんどん批判してほしいと思っています。