自分の乗っかっているリソースの出自に対する無関心さ


金銭供与の有無に関わらず、「サービスをする/受ける」事に対するこの妙な敬意の払われなさというのは、結局のところ、「日本人はサービスを受けることをタダだと思っている」とかそういう文化論的な話ではなく、単に視野というか「世界」の狭さに起因するものなのかもしれない。もっと言えば、自分の乗っかっているリソースの出自に対する無関心さ、というか。

これが、私が第一に関心を持つ所です。しかし、ぱど厨の問題を、全面的にここに引き寄せて論じるのはちょっと無理というか乱暴ですね。(もう少し正直に言えば、「団塊三世」なんて言い方は、上の世代に対する私怨で目がクモって計算も間違えている)

気になるのは、「無関心」の部分が何かの欠如、例えば無知とか無教養とかでなくて、ひとつのスキルの習得のように見えることです。生まれたまんまのプレーンな日本人がこうだってことはないと思います。クソガキは何かが足りないから「ぱど厨」になるのではなくて、何かを身につけて「ぱど厨」になるのです。

クソガキがぱど厨になることは驚きではなくてむしろ当然、驚くのはその「何か」の習得速度です。彼らに足りないものはたくさんあるけど、その足らないものを足せば問題が解決するとは思えない。何かをアンラーニング、もしくはデプログラミングしなくてはならない。

「自分の乗っかっているリソースの出自に対する関心」は原始人でも(現生人類ならば)持っていて、その関心が驚くほど精緻な思考を産んで神話になるのです。(→カイエ・ソバージュ)