「みんなってあんたと誰?」とみんなが言っている?

みんなってあんたと誰?」に関するリンク紹介記事に私は


以下が、私の所へリンクしてきた人です。でもみんな、Bonvoyageさんの問いかけに反応してるんだと思います。

とコメントしています。つまり、私は「『みんなってあんたと誰?』とみんなが言っている」と言ったわけです。リリカさんから、これに対して(ちょっと意地悪な?)問いかけがあったわけですが、私は、「最初の『みんな』と次の『みんな』とどこが違うのか、その使い分けは意味があることなのか」というふうに受けとめました。

それで、私としてはこのふたつには大きな違いがあると思っています。それは、レトリックを対話を抑制するために使うか対話を促進するために使うかの違いです。

「お前にはみんな迷惑してんだよ!」と言う人は、「みんな我慢してるんだから、おまえも我慢しろ」つまり「黙れ!」と言っているのに対して、「みんなってあんたと誰?」と言っている人は、「我慢しているそのシステムを強制しているのは誰?」つまり「その人と直接対話したい」と言っている。私はそう感じているし、たぶんid:Bonvoyageさんも我々の記事にリンクしてきた多くの人も、そうだと思います。

リンクがたくさんあってどれだか忘れましたが「誰?という問いに答えられるなら『みんな』という言葉を使うのは問題ない」という趣旨のコメントをつけていた人がいたと思います。単純に「みんな」という言葉をおさえつけて黙らせたいのではなくて、「みんな」という言葉を使うと、その言葉を発した主体が不明確になって、それについての議論を誰としたらいいのかわからなくなる、それが問題だと言っているのではないでしょうか。

ただ、問題はなぜ「お前にはみんな迷惑してんだよ!」という言葉が、「お前のために俺は迷惑してんだよ!」という言葉より、強力な圧迫感を与えるのか?ということです。漠然とした「多数」というものに対する恐怖があって、その「みんな」は自分自身の内なる声でもあるわけです。

そこに自覚がないと、リリカさんが危惧するような、「マジョリティ志向の共有」という危険な方向に進む可能性もあるかもしれません。それは、常に気をつけるべきことだと思います。

ちょっと余談になりますが、このブログのタイトルに「圏外」という言葉を使っているのは、「私のように考える人はきわめて少ない」というアピールを意図しています。


自分の立場を保証する方法として、仮想的に、「みんな」という多数派を味方につけるか、「きわめて少ない」と少数であることに依拠する

という批判の対象としては、内田樹さんより私の方がふさわしかったのかもしれません。

このブログの前身の「圏外からのお便り」というホームページを作ってこれを検索エンジンに登録しようとした時に、登録するために「カテゴリー」を選択する必要がありました。その時、私としては、ほぼ、今このブログで書いているようなことを書こうというイメージはあったのですが、「これはいったいどのカテゴリーに含まれるのか?」と非常に悩んでしまいました。

当時は、検索エンジンはたくさんあって、分類の方法もさまざまだったのですが、どの分類に対しても、自分が含まれるジャンルが決められず、「圏外」という名前は実に自分にふさわしいのではないかと、その時思いました。

自分の中には、「多数/少数」ということについて、かなり特殊な方向に鬱屈したルサンチマンがあるような気がしています。「俺が安住できるカテゴリを用意してくれないこの世の中に、『圏外』であることを武器に復讐してやるぞ」という感じです。「みんな」という言葉を自分がそれほどたくさん使っていたということには驚きましたが、リリカさんにはそのあたりを見すかされたような気がして、ちょっと「やられた!」という感じがしました。