隊長が言論のキャズムを埋めている


私の立場を一応表明しておくと、Winnyがあろうがなかろうが、逮捕されようが著作権法が改正されようがどうでもいい。また新しい手を考えるだけだ。

という人が、なぜ敢えて産業界、警察の立場に立って東浩紀氏のエントリーに激しく反論してみるのかと言うと、そこに世論の中のキャズムがあるからだ。

そういうことを真正面から言う人が少ないから、この意見は注目を集める。自然と反論が集まるからディベートの練習、頭の体操としても効果的だし、宣伝とかアピールにもなる。隊長の場合は、そういうセコい利害の計算より、エンテーテイナーとして人を喜ばせようという本能があって、(経済的利害、思想的利害から言って)どの立場にも立てる自分のアドバンテージを、一番観客を沸かせる方向に使ってみようということじゃないかな。

だから、この記事の、「essaは「過剰な服従」「過剰な現実主義」にとらわれていないか?」という所に書いた、


一方で、ブログには別の働きがあると思います。つまり、左右両極の割れた世論のキャズムというのは、空白域です。ブログが他のブログとの差異を追求していくものだとしたら、意識的、無意識的にその空白域を埋めようとするブロガが多くなるのではないか。

この意見のひとつの証拠になるものではないかと思う。実際に、(余興なんだろうけどさすがにそれでも)いくつか鋭い論点があって、それは47氏を支持する側にとっても役に立つものだ。


むしろデジタルデータのタイトル数増大と共に卸機能、パブリッシャー機能は重視されてきており

これは、私がここで言ったことと同じで同感です。創作者が欲しいのは、制作費より「自由に創作してもつかまらない保証」でしょう。金(労力)が必要なのは卸機能だと思う。

私には、デジタル証券は少なくとも卸機能を重視した提案であるように思える。重要な卸の領域で新陳代謝を起こすプランだから嫌われているのだ。


著作権法財産権の一部である。財産の形態を過去の流れと分断して規定し直すためには、いままでの財産を保持する人たちの合意がなければならない。

これは、さすがに鋭い意見だと思う。こういう立法論的議論が、一番必要なことだ。単なる多数決や密室での談合や実力行使や権威に頼ること以外の手段で法律を変えていくには、何が必要か、どういうふうに利害を調整するか、何を配慮すべきか等の具体的な論点である。


それは著作物、財産を持たない人が、著作物、財産を持つ人からの施しを強要する主張に他ならず、あまり賢い扇動とは言えない。

みんなで、賢い煽動を考えましょう。

私としてはやっぱり、キャピタルフライトならぬコンテンツフライトかな。つまり「創造的な人がみんな逃げちゃってもいいんですか?」という説得。逃亡先は外国とアパシー