なぜみんな戦争に「鈍感」なのか?

倫理+戦略=誠意

  1. (人質拘束がなければ)自衛隊の撤退は困難だが可能性はあった
  2. 現在は、人質拘束と切り離して自衛隊の撤退をすることは困難
  3. 拘束された場合、解放条件に自衛隊の撤退が入ることとそれを小泉首相が拒否することは事前に予測できた
  4. 拘束される危険性は事前に予測できた

という前提から、「彼らは自衛隊の撤退の障害となる(と同時に自らの命を危険にさらす)リスクの中に、半ば意図的に飛びこんだ」という主張をしているものです。

このように整理してみると、前提から結論への推論にはそれほど飛躍がありませんが、前提にはいくつか無理があると思います。

1は荒川さんが批判されている点です。私も自衛隊の派遣には「忠実なる対米追随の表明」という政治的な側面があって、軍事的な状況の変化がそれをくつがえすのは難しいと思います。

また3は、一方で私自身が「声明に自衛隊撤退が入ることがおかしい。日本赤軍関与の証拠である」と主張しているわけで、人質となったら何よりアメリカ軍に対する交渉材料となる、という読みの方が論理的かもしれません。

2と4については、私自身は普通の発想だと思いますが、全く異論のないものではありません。

ですから、これについて議論するならば、これらの前提、特に1や3がおかしいことを主張すればいいわけです。私の主張は、上記4点全て正しくなければ成りたたないので、どれかひとつでも前提に誤りがあれば、それだけでナンセンス、暴論であると言えるわけです。

それで、荒川さんに「間違っている」と言われるならしかたないのですが、「卑怯だし危険な考え方」と言われるのは何故だろうと考えました。「間違った考え」がどうして「危険な考え」になってしまうのだろうかということです。というのは、これを書く上で漠然と私自身も「危険な考え方だけどこれは言いたい」と思ったからです。「間違っているかもしれないけど言いたい」と思うよりは「危険だ」と思いました。

ですから、前提に関する認識には違いがあっても、この結論が正しいか間違っているか以前に「危険である」という認識については、私と荒川さんが共通に持っているような気がします。それを考えていく上で、次の言葉がヒントになります。


NGOに関して私は彼等に全面的な敬意を表します。何故なら私にはできないことをやっている人達だから。

これも全く同感なのですが、だから、(いいかげんな根拠で)NGOを批判するのは「危険な考え方」になるのではないでしょうか。

ここからは、私自身の中で「これは危険である」と言う部分を観察して思ったことです。

つまり、「戦地という危険な場所にあえて飛びこんで善なることをする人」というのは、聖なる存在なのです。ですから、それを批判することを不愉快に感じるわけです。対等な人間同士であれば、「彼らは立派だけど、ここは間違っているのではないか」「いや、そうじゃない。こういう理由があるから正しい」という論議をすることは問題ではありません。お互い抵抗なしに議論できて、問題を論理的に追求して結論が出れば後腐れがありません。

しかし、聖なる存在というのは、理屈が通っていれば批判していいものではない。間違った批判は間違っているから悪なのではなくて、批判すること自体が悪なのです。

それで、NGO自衛隊をそのように聖なる領域に祭りあげることは、戦争を遠ざけることにつながります。戦争は「あっち側」のことで、誰かすごく偉い人がやっていること。偉い人にお祈りをすることは欠かしちゃいけないけど、それさえやっておけば関係ない。

そして、そのことに疑いを持つ人は、間違っている人でなくて悪い人になってしまう。「間違っている」というレッテルは、もう一度勉強しなおせば挽回できます。しかし「悪い人」というレッテルは挽回できない。その人の知識や理解力でなく、その人の人格に対する非難となります。

だから、みんな「悪い人」になりたくないので、批判をためらう。疑問は解消されずに抑圧されるのです。私のスキだらけの暴論が、一方で多くの共感を得たのは、そのような抑圧された感情がある人がたくさんいるからだと思います。

荒川さんは「日本人(だけ)が「戦争」というものに対して無知で鈍感である」とおっしゃっています。それも同感なのですが、なぜそうなるかと言うと、戦争に関わる人が聖なる存在として批判を許されない存在になっているからではないでしょうか。戦地というのが聖なる領域となっていて、そこに関わる人はいかなる人であっても自動的に聖なる属性を確保して、それを批判するとぬぐいがたい「悪」というレッテルを貼られてしまいます。それは他人が貼るだけではなくて、自分自身が自分にそういうレッテルを貼ってしまう、そういう回路を我々がみんな埋めこまれているのです。だから、そういうもの全体に対して鈍感になって関わらないようにして、自分を守るんです。

平和運動をする人の攻撃性は、そういう構造を温存して、自分が「あっち側」になることで、一種の権力を得る所から来ていると思います。そういう聖なる存在に対する怯えは、多くの日本人が持っているので、これは権力として有効です。2ちゃんねるではモノが言えても、対面でインタビューされたり署名を求められたら、なかなか逆らえない。一方で批判する言葉を奪われたことから、それに対する反感も育っています。

今回の事件で、2ちゃんねるでは人質や支援者に対する批判が噴出しています。その背後には、ある程度根拠のある疑惑が数多くあるのですが、その疑惑追求にカタルシスを感じている人が多いように思います。それは、聖なる存在に対する批判を封じられた鬱積ではないでしょうか。