仏陀のブログ
シャカが悟りを開いてブッダになった時、彼は「自分の悟りの境地は言語化できない」とゴネたそうです。神様がなだめすかして、なんとかそれを表明するように説得して、おかげで2500年後の私たちは彼の言葉を今でも知ることができます。
しかし、仏陀は自分ではまとまった著作は残していません。仏典は古いものでも彼の死後数百年たってから編集されたもので、彼はひたすらしゃべくって一生を終えたそうです。
おそらく、彼が言いたかったのは「自分の体験をスタティックな体系的な形で言語化することはできない」ということだと思います。もちろん、当時のテクノロジーの水準や識字率を考慮して、最も効果的に自分の教えを広めるために、口頭でのプレゼンに終始したという側面もあるでしょう。しかし、より本質的な意味として、世界と切り離された孤立した存在としては、彼には言うべき言葉がなかったのだと思います。彼の言葉は、全て状況への応答として出てきたものです。
もし、彼がゴネた時に世界にネットとブログがあったら、神様は「ブログというものがあるから、まずこれをやってみなさい」と諭したのではないでしょうか。
これならば、真空から言葉をひねり出すのではなく、トラックバックやコメントや他のサイトの記事という、外部の状況への応答として言葉を残すことができます。ダイナミックな形式で思想を表現するのに適したシステムだからです。
仏陀だけでなくイエスも孔子も著作の無い人です。現代の著作権をあてはめるとしたら、論語や聖書の著作者は彼らの後継者たちです。
著作権という考え方は、人類の歴史の中ではかなり新しいもので、活版印刷というテクノロジーに依存したものです。そういうスタティックな形式を強制するテクノロジーでは表現できない思想も世の中には存在しています。
孔子のように世渡りがヘタな人がブログを書いていたら、規約をよく読まないで記事を書いて、著作権をホスティング会社に奪われてしまうでしょう。イエスのように、長老に反抗してタブーを恐れない人がブログを書いていたら、きっとサーバを押収されるような騒ぎを起こしていたでしょう。
活版印刷が普及して、プレゼン能力が不要になったわけではありません。現代でも営業マンは書く力よりしゃべる力を要求されます。文書では伝えられないものがあるのは確かで、しゃべることが不要になるわけではありません。
同様にネットがいくら普及しても、静的な紙の文書が不要になるわけではないし、その為のルールも残す必要はあります。ただし、それをそのまま無自覚にネットにあてはめるのはおかしい。それをしたら失ってしまうものが大きすぎると思います。