歪曲報道をワールドワークで治療できないか?

人間の集団を理解する上で、その集団の合理性のレベル、あるいは合理と非合理の境界線を把握することが重要だと思います。

例えば、自分の政権の延命の為にはイラクでどれだけ人が死んでもいい、という考えはとても正気とは思えませんが、これがブッシュ政権の第一優先事項であることを受け入れると、アメリカの政策の大半は合理的な政策であるとみなすことができます。リベラルと保守派の主導権争いによる政策の揺れや、いくつかの判断ミスはあったにせよ、二期目の大統領選挙に有利になることしか、基本的にブッシュはしていません。

北朝鮮の場合は、政権と言うより金正日個人の生命の安全が目標だと思いますが、限定された選択肢の中でそれなりに合理的な行動をしていると思います。これもやはり、その為に国民が飢え死にしてもよいという考え方は狂気と言ってもいいかもしれませんが、そういう優先順位を設定してみると大半の行動が合理的です。

このように、大半の組織は組織の存続を第一優先として行動します。その為に何を切り捨てるかは組織によって違いますが、存続を優先している限りは、非倫理的であっても合理的な行動を取ります。相手が合理的であったら、それは政治や外交の対象です。

しかし、日本の問題の多くは、いかなる意味でも合理的とは言えない組織によって起こっています。一番わかりやすいのはマスコミです。マスコミは事実をねじ曲げた報道をたくさんしますが、そのウソによって、自分たちや特定の階層や組織が利益を得るとしたら、それは非倫理的ではあるが合理的な行動です。私もそのようにマスコミの歪曲報道を理解しようとしてきましたが、それでは説明できない点が多いと思います。

歪曲報道によって世論操作を行なうには、それが気づかれないように上手にやらなければ逆効果です。馬鹿だからバレバレなことをやってると嘲笑するのは、気持ちがいいですが事実とは違います。マスコミは馬鹿ではないし情報を握っています。当然ですが、ネットも2ちゃんねるもブログも見ることができます。そういうものと従来の情報ソースを比較することで、いかなるテーマについても他の組織より正しい情勢判断ができるはずです。既得権を守る為に、それを第一優先として行動すれば、それは可能なことです。

ですから、マスコミは合理的な行動をしない組織です。あるいは、自己の内的世界を守る為に、内的な論理に従って行動しています。オウム真理教と同じです。彼らも、彼らの内的な世界を守る為に、内的世界の合理性に従って行動しました。

日本は、合理性と非合理性のブレが大きい国だと思います。

明治維新から日露戦争までは、日本は合理的な国でした。日本の一番の優先事項は攘夷だと思います。これは江戸時代から現代まで一貫してそうだったと思いますが、明治維新とは「合理的な攘夷」に向けての改革だったのではないでしょうか。外国を追い出す為に、欧米の社会システムや学問を取り入れ、一部の欧米の国(イギリス)とも同盟をむすんだのです。それが合理的な行動であって、唯一の方法でした。

それによって日露戦争に勝利して独立を確固たるものにしたのですが、あまりにも過度な合理性には揺り戻しがつきものなのか、その後は、合理的とは言いがたい方向に向かいます。

こういう司馬史観的な見方は最近いろいろ批判されているみたいですが、太平洋戦争の敗戦というカタストロフで利益を得た人がいるとは思えないので、どこかで非合理の方向に舵を切ったのは間違いないと思います。

また、その後の自民党政権による非武装アメリカについて経済優先で国作りをするという政策も、それが唯一の解であったとは言えないにせよ、かなり合理的な行動です。これも過度に合理的だったのでしょう。日露戦争も高度成長も、非白人の国でそこまでやった国はありません。日本というモデルがあって、つまりある程度の結果が保証されていてそれをやるのと、世界で最初にやるのでは意味が違います。無理して合理的に自分を追いこんでいるのだと思います。

ですから、バブル以降はだんだんと合理的とは言えない政策が目立ってきます。これは特定の階層や政府がそうであるのではなくて、日本人全体のメンタリティの中にそういう要素があって、それがオウムやマスコミという形で噴出しているのではないかと思います。

合理的でない組織を相手にした場合、政治は無意味です。北朝鮮アメリカや政治的に行動を変えることができる国ですが、日本はそうではありません。

日本で起こっていることは、自虐行為嗜癖、DVの類と同じだと思います。こういう人に、「おまえのしていることは悪いことだ」と言ってもムダです。こういう人は病気なんです。こういう人に必要なのは治療です。

このモデルが現実の改革に有効なのかはわかりませんが、他のモデル、あるレベルの合理性を仮定しないと使えないモデルよりは、いろいろな行動を説明できます。例えば、歪曲報道はどれだけ批判を受けても止まりません。禁煙と同じで、ある程度がまんすると、どうしてもまたやってしまい、ヘタしたらリバウンドが来てもっとひどくなったりします。外的なプレッシャーで嗜癖を落とすのはほとんど不可能で、もっと別のメソッドが必要です。

また、単なる批判の為の説明でなく、問題行動を病として理解した上で、自己の内面にそれを見つけることで、成長の糧とすることもできます。人間は自己の属する集団の集団的な病からフリーになることはできません。できるのは、内的な病を外部に投影して批判することだけです。やりすぎると、自己の一部を傷つけることになります。

DVに対して正論を言ってまた殴られて、殴られても殴られても懲りないでどうしてもそれを止められないのも、また別の嗜癖です。私なんかもいくらかその傾向があるかもしれませんが、DVから逃げないのも病気です。

合理的でない組織に合理的にふるまうのは非合理的な行動です。相手が合理的でないのを理解し納得するために、多少の時間がかかるのは仕方ないことですが、そうとしか説明のしようのないデータをたくさん得ているのに、相手が非合理的であることを受け入れないのは非合理的です。

相手と自分の非合理性を受けいれ、相手の合理性の限界を見極めるのが真に合理的な人だと思います。私は、ミンデルのワールドワークをそのような観点で見直してみようと思っています。