感情の民主主義 - pushされる言葉とpullされる言葉

私は、民主主義や言論のルール、法治国家の原則などを高く評価します。人間には、感情的で利己的な部分が多くあり、それによって動いてしまうこともあります。もし、人間が感情のおもむくままに行動していたら、社会はなりたちません。

社会を維持するためには、理性とルールによって人間の行動を縛ることが必要です。そのための具体的な手法として民主主義というものがあります。これは、昔の人がさまざまな試行錯誤の末、産みだしたもので人類の遺産として尊重すべきものだと思います。

しかし、現在の民主主義、特に言論にかかわるルールには、大きな弊害があります。それは、理性を納得させることはできても、感情を抑圧してしまう性質があることです。特に、論理的に実証的に議論しないといけない、というルールの元では、感情が置き去りになってしまうことが多いと思います。

このことは、言葉の持つ性質を考慮した妥協の産物だと思います。確かに、面と向かって発する言葉には、危険な性質があります。感情的な対立がある時に、それをそのまま「馬鹿野郎」などと口にしたら、その対立は激化します。それは果てしなく増幅し、最終的には暴力による解決で決着する以外の手段がなくなってしまいます。

ですから、言葉というものがそういう性質を持っている以上は、感情に基づく直接的な言葉を禁止し、理性によるフィルターをかけることを強要することは、やむを得ない選択です。

ですが、これは理性が感情より上位にあるということではありません。感情も理性と同様に人間の精神を構成する重要な要素であり、同じように尊重すべきであると思います。感情が悪い方向に圧縮されると、往々にしてそれが理性のガードを破って、破壊的な結果につながることもあります。

しかし、「感情が悪いものだ」というのは、間違った思いこみです。「ある前提条件のもとで感情が危険なものになることがある」というのが正確な理解だと思います。

ですから、その前提条件が成り立たなくなった時には、違う結論もあり得るわけです。つまり、感情を増幅しないで発散できるしくみがもしあったならば、我々は理性と感情を同等に尊重しても、安定した社会を営むことができるわけです。

私は、ブログにまさにその機能があると思います。

感情の増幅は言葉が本来持つ性質ではなくて、言葉の伝わり方によって付加される性質だと思います。面と向かって発する言葉、演説やマスメディアのように多数に向けて発せられる言葉は、言わば「PUSHされる言葉」です。理性に制御されない言葉がPUSHされることが、増幅と破壊、暴力につながるのです。

ブログは「PULLされる言葉」です。誰もそれを読むことを強制されるわけではありません。それは、言葉の持つ別の機能を顕在化させると思います。それは「共感」です。感情を浄化する働きです。

論理によって理性が創造的な機能を持つように、共感によって感情が創造的な性質を持つことがあります。そのことを「愛」と呼んでもよいと思います。

全ての「PULLされる言葉」が、全ての「共感」が「愛」につながるとは限りません。あるいは「PULLされる言葉」もやはり増幅と暴力につながるかもしれません。しかし、我々はそれを判断すべき根拠をまだ持ちあわせていないと思います。まだ、その可能性に見切りをつけるほど、我々は「PULLされる言葉」の効果をよく知っているとは言えない。このような形で言葉を共有することで、何が起こるのかを我々はまだ充分経験していないのです。

理性が過度に優位に立つ政治的なしくみの中で、実際には「恐怖」という感情にもとづく社会を、我々は作りつつあるような気がします。理性と感情のバランスが必要とされる今、「PULLされる言葉」の持つ可能性を十全に検討すべきだと思います。

従って、私は「PUSHされる言葉」のルールがそのままネットに持ち込まれることには反対です。ネットが無法でいいという意味ではありません。感情の機能を充分に考慮した「PULLされる言葉」にふさわしい、新しいルールを作るべきだと思います。

その為の第一の原則は「何を言ってもOK」だと思います。それは「何をどのように言ってもOK」ではありません。「PUSHされる言葉」においては、「どのように」に条件をつけずに「何」をに条件がつきました。言っていいWhatとそうでないWhatが分けられました。

「PULLされる言葉」においては、「何」でなく「どのように」に条件をつけるべきだと思います。ある種の強制がない形態においては無条件に全ての言葉が許されるべきです。ルールはその形態を明確にすべきです。

具体的には、今の時点で考えていることは、反論(ツッコミ)が可能であるという条件が最も重要で本質的なことだ、ということです。これには、違う考え方もあるかもしれない。別のもっとよいHowがあるかもしれません。それはわかりません。

しかし、WhatでなくHowを規制し、Whatには条件がつかないようなルールを決めるべきだと、私は考えます。そして、「PUSHされる言葉」と「PULLされる言葉」、また理性と感情がバランスよく機能するような、新しい民主主義を我々は創造していくべきです。