捏造と両義性 - 「緑の資本論」読書メモ3

神(人でないもの)であって同時に人であるという存在の仕方はアートになりうるものです。例えばSMAPなんかは、そういう領域に入りつつあるような気がします。紅白で何十メートルもある衣装を着るといった既存の様式に頼らず、新しい両義性を創造しているからです。

彼らの人気をジャニーズの先輩、後輩と比較すると、普通の人であることと普通の人でないことを両方とも独自の仕方で追求している所にポイントがあると思います。これまでSMAPは5人が5人ともそれを高いレベルで実現して来ました。そして、いよいよ彼らの人気も今年あたりからかげりが見えてくるような気もしますが、その凋落は両義性の喪失として現われてくるでしょう。つまり、これから彼らは、徐々にただの人になるかただのスターになっていくことで、人気を失っていくわけです。

そういう風にこれからSMAPの失っていくものを想像してみると、大衆がいかに両義性というものを熱烈に求めているかがわかってきます。

一方で、大衆は両義性というまどろっこしいものが嫌いでもあります。これは世界的な傾向であるらしく、「緑の資本論」の三本目は、ドイツにも捏造マスコミがいたという話です。

犠牲になったのは、作曲家のシュトックハウゼン氏です。この人は9.11テロの直後の音楽祭での記者会見で、この事件についてコメントを求められ、「両義性」を含んだ答をしました。とりあえずごく簡単に言えば、いいものと悪者を単純に明確にはしなかったということです。

この質問をしたジャーナリストは、「ウッシッシ、うまくひっかかったぞなもし」と喜んで、シュトックハウゼン氏の発言を切り貼りして、「問題発言」をでっちあげました。某テレビ局のような高度な音声編集をする必要もなく、単に前後の文脈から切り離すだけで「問題発言」ができあがってしまったようです。翌日、それがテレビで流れると、シュトックハウゼン氏はめちゃくちゃたたかれ、コンサートどころか音楽祭までもがキャンセルになってしまいました。

中沢さんは、この事件を単なる誤解から生じた事故とか、特定のジャーナリストの売名行為とはみなさず、時代の無意識的な意図がこの事件を起こした、と言います。ひとつの事件の中に、善と悪を同時に見ようとする芸術家の感性を、大衆が無意識的に拒否したと言うのです。

石原知事のケースも、ある歴史的事実に対する「善と悪を両方含むもの」という主旨の発言に対して、それを文脈から切り離して一面的、平面的に歪曲してから弾劾しようというマスコミの意志が共通しています。(石原氏の場合は、シュトックハウゼン氏ほど深いレベルの両義性でなく、やや形式的、政治的な韜晦かもしれませんが)

一方で両義性を求め、一方で両義性を拒否する、両義性と大衆はまさに両義的な緊張関係にあると思います。