法、規範、市場、アーキテクチャ、そして「檻」

みなさんは酒鬼薔薇と長崎の事件の加害少年の本名を知っていますか?もし、知らなかったら近くのネットに詳しい人に聞いてみてください。何も廃人クラスの人じゃなくても大丈夫です。ちょっと2ちゃんねるが好きな人で充分です。たぶん彼は暗記してます。検索したりしないで即答するでしょう。「見たことがある」と答える人は、おそらくその見た名前を覚えてしまっていると思います。

では、最近、福島で55才の中年が小学生の少女を誘拐して捕まりましたが(記事)、この事件の犯人を知っていますか?こちらは、事件のことは記憶していても犯人の名前は知らない人の方が多いと思います。

もし私が偉くなったら、こういう悪質な中年犯罪者の名前を隠蔽するようにマスコミに圧力をかけます。少年犯罪の方は情報を公開します。そうすれば、きっと結果が逆になります。少年犯罪者の名前は忘れられて、中年犯罪の方をみんな必死になって調べて暗記します。おそらく、中年犯罪の方に注目が集まるのではないかと思います。私は、もしできるなら、こうやって中年犯罪に注目を集めたいと思います。

権力はこういう方法で、人々を誘導することができるのです。

さて、これはレッシグの言う、法、規範、市場、アーキテクチャのどれでしょう。どれでも無いですね。レッシグの議論に抜けているのはこれです。東浩紀さんに敬意を表して、これを「檻」と名づけましょう。「動物」としての我々を縛るものです。これによって、レッシグのモデルを次のように拡張したいと思います。

 アーキテクチャ = 物理的に「動物」としての我々を制約するもの
檻 = 心理的に「動物」としての我々を制約するもの
法、規範、市場 = 理性のある人間を制約するもの

レッシグは「人間は理性的な存在である」と思いこんでいます。それが彼を縛る「檻」です。「人間は理性的な存在である」というのは信念あるいは物語です。

私は「人間は理性的な存在であると見なすことはよい出発点、あるいはモデルの単純化に有効である」と考えています。その意味では、レッシグのモデルを評価します。物理学で言えば、ニュートン力学に相当すると思います。非常にわかりやすく考えやすいし、多くの場合はこれだけで用が足ります。「檻」は空気抵抗や相対論的な歪みに相当しています。これを考えに入れると、モデルが複雑になります。自己言及的な相互作用が生じるからです。

でも我々は「檻」に縛られています。少なくとも私は「檻」に縛られていて酒鬼薔薇の本名を暗記しています。