即身仏は立派な社会人か?
Freezing Pointというひきこもり支援の活動している方の日記を読んでいて、以下の話に衝撃を受けました。
繰り返しますが、本当に難しいのは、生きようという欲望自体が枯れてしまっている人たちです。彼らは本気で「死んでもいい」と思っている。僕にも思い当たるフシがあります、「餓死」は身近です。
ここで「餓死」と言っているのは、比喩や誇張ではなくて、ひきこもり状態で両親が亡くなられた後、残された兄弟がそのまま餓死してしまったという事件のことです。検索してみたら、ほぼ日の「あのくさ こればい!」でこれを取りあげた記事が見つかりました。
ひきこもり問題は複合的な問題だと思います。トラウマやPTSDのような精神医学的な問題でもあるし、福祉や若者の就業支援あるいは教育の硬直化という社会的な問題でもあるし、家族のあり方の問題でもあるし、若者の就業機会の不足のような経済にからんだも含まれています。おそらく、現実のケースでは、ひとつひとつのケースでこれらの問題がいくつも複雑にからみあっている。だから、個々の問題をときほぐしながらひとつひとつ対応していかなくてはならないと想像します。からみあい方は個々のケースで違っていて、何を優先して考えるべきかも毎回考えなくてはいけないし、それによって対応の方法や考え方も随分違ってくるでしょう。
そういう困難さを引きうけている方々には頭の下がる思いがします。しかし、ここではあえてその中の特定の一面だけを論じてみたいと思います。
私がこの話を聞いてまず思い浮かべたのは、即身仏です。この兄弟も、同じように自ら食を断って死んで行ったわけですが、社会から見る目があまりにも違うことについて考えてしまいました。もちろん、この兄弟が「死んだ後も衆生救済に尽くすことを願って」そうしたとは思えません。自らの意思というよりは、そこに追いこまれていったという方が正しいと思います。しかし、複合的な要因の中に「生きようという欲望自体が枯れてしまっている」という側面があったのは間違いないと私には思えます。
一方、即身仏になったお坊さんは、当時も今もたくさんの人から大変な尊敬を受けているわけですが、この尊敬もただ餓死したことへの尊敬ではなくて、多くの社会貢献と宗教的な実践の究極として即身仏になったわけで、その一連の行いが尊敬されているわけです。
ただ、私が言いたいのは、どちらにも「生きようという欲望自体が枯れてしまっている」という側面が共通にあったことと、その共通点を単体で取り出してみたとしても、一方はそれ自体を尊敬され、一方はそれ自体を否定されていることです。Freezing Pointの9/13分には次のような指摘があります。
ひきこもりへの非難として、「甘えている」「親に食わせてもらって」「自分だって状況が許せばひきこもる」などがある。多くの人が抱えている意見だと思う。
不思議なのは、こうした罵倒を寄せる多くの人は、「本当の大金持ち」に対しては非常に寛大だということだ。少なくとも引きこもりの人に対するようには、説教したりはしない。大学生でベンツを乗り回していようが、その学生が宝飾品だけで数千万円もっていようが、どんなに楽しそうに毎日を過ごしていようが、「・・・・」と沈黙でやりすごす。なのになぜか引きこもりに対しては、「甘えるな、仕事しろ」。
確かに我々の社会は欲望の過剰には寛大で、欲望の枯渇には理不尽に厳しいような気がします。
ほとんどの親は子供に「立派な社会人になれ」と望むでしょうが、もし、子供が「ボクは(ワタシは)即身仏になる」と言ったらどう思うでしょうか?それもちゃんと正統的な修行のステップを踏んで即身仏になりたいと言ったらどう思うか。「即身仏は立派な社会人じゃない」と答えるしかないでしょう。「社会人になれ」という言葉の中には、欲望を持つことを強制する意味が含まれているような気がします。
いくらひきこもりと言っても100%即身仏を望む人は少ないでしょうが、70%か80%くらい即身仏になりたい人はたくさんいるような気がします。その為にかなりのことを犠牲にする覚悟もあるのに、そういう人を受けいれる場がこの世の中には無いんだと思います。あるいは「社会人」という概念が、そういう可能性を隠蔽しているのだと思います。
社会人も即身仏も抽象概念ですから、ボールペンで定規を使って書いた直線にも顕微鏡で見ればデコボコであるように、100%の社会人や100%の即身仏はいません。しかし、社会人と即身仏をどのような割合で混ぜあわせて自分を作りたいか、そのことには個人によって好みの混合割合があって当然だし、それを追求する権利は誰にでもあると思います。この点について、非常に狭い可能性しか認めない現代の日本は、私には非常に貧困で病的に思えます。
「ひきこもりの社会復帰」とは「即身仏への道からのドロップアウトの強制」なのかもしれません。支援の現場にいる人は、無意識にこのような問いを自問自答されているような気がします。両方の可能性をオープンにした上で、あえて手をさしのべるという非常な困難をかかえているわけで、それは本来は社会全体で背負うべき困難ではないのか、と私は思います。