私の遺言
気になるので、もう一度通読した。疑問点が氷解した。
最初に読んで感じた疑問点は次の二つ。
- なぜタイトルが「私の遺言」
- 一見、構成がアンバランスなのはなぜ?
構成がアンバランスとは、前半は時系列にそって詳しく体験が書かれているが、後半に行くにつれて体験談が少なくなって教訓めいた話が増えてくる。神戸の児童殺傷事件の犯人の手記などがかなり長く引用されていて、未成年の凶悪犯罪に対するコメントがかなりの分量で書かれている。
個々のパーツはどれも納得できるのだが、流れが読みきれなかった。あるいは、何かが解決したことはわかるのだが、何がどう解決したのかが非常にあいまいであった。
二度読んでみて、そこがわかって同時にタイトルの意味もわかった。
この本には、佐藤氏の視点の移行が表現されているのだ。この本は最初から最後まで全て一人称で、しかも威勢のいいオバサンの一人称で統一されている。そこは統一されているのだが、後半に行くにつれて、佐藤氏は、少しづつその一人称を観察する視点を獲得していったのだ。
「私」を観察する「私」が、観察される「私」と同じであっては意味がない。それは、元の「私」が分裂しただけで、新な視点とは言えない。「私」を観察する「私」は別の存在である。おそらく、その観察する「私」は言葉をしゃべれない。しゃべった瞬間に観察される「私」の一部になってしまうからだ。観察する「私」の言葉を直接文章に書くことはできない。
また、観察する「私」が観察される「私」に干渉したら、干渉する「私」が干渉される「私」の一部になってしまう。観察する「私」は観察される「私」に何も変化を与えることなく観察しなくてはいけない。「観察」という言葉もやや不適切なのかもしれない。
そのような観察する「私」が遺言として残したのが、この本である。観察される「私」は、主観的で感情的なオバサンのまま「私」の体験し思ったことをそのまま書く。観察する「私」は、一切口をはさまずただ見ている。そのような観察する「私」のめざめる過程がそのまま書かれている。
そのような「私」がめざめることが、本当の意味で奇跡でありオカルト(秘儀)なのである。