歪曲と悪文

メディアの解体-- 「ワールドカップ北朝鮮報道の正体を暴く、メディアリテラシーの新しい波」の中で、朝日新聞の中田引退報道について触れて、その謝罪記事について次のように書いている。


その内容は通常の謝罪訂正記事ではなく、文章の主語が不明確な韜晦とも言える内容だった。

そう、あの訂正記事は頭の痛くなるような気持ち悪い文章だったので印象に残っている。

愛・蔵太さんも6/4の記事で、「記者に都合のいい発言だけを取り出し、それが発言の全体像であるかのように」取材方法と、コラムの悪文について(項目は分けているが)続けて書いている。

事実を歪曲してそれをごまかそうとすれば、どうしてもねじまがった悪文になってしまうのは道理だが、ここにはそれ以上のつながりがあるような気がする。

俺は、朝日新聞に「何かを拒絶する強い意思」を感じる。その意思が、ある場合には歪曲報道として現われ、別の時には悪文として現れる。その意思は明確に感じられるのだが、何を拒絶しているのかがわからない。


何かを、彼らは拒絶しているのではないか。この新聞社のどこかが、確実に歪んでいるのではないか。いつの間にか。気づかないうちに。いま、ストレートにものがいえない雰囲気はないであろうか。みんなが同じ歪みを持つ新聞が、そこにないといいきれるだろうか。
(元ネタは愛・蔵太さんのページにあった『平和の風景』(朝日新聞社会部・すずさわ書店・1400円・1981年発行)

確かに、思考停止していい気分になるには、便利な文体ではあるのだが。