朝日社説:対話と圧力をお手本にしました

朝日新聞に真実を公開させるには「対話と圧力」が必要だ。

報道機関の取材源や取材方法には直ちに公表できない内容もあるだろう。しかし、これは朝鮮語の読めない記者が朝鮮語の封筒を読んだのかという、朝日新聞社がすでに発表した内容に関する肝心要の疑問である。家族会の当然の問合せに対して一切回答しないのは、信じがたい秘密主義と言わざるをえない。

情報を隠す。そのことがばれる。そんなことの繰り返しが、既存マスメディアに対する2ちゃんねらの不信感を膨らませてきた。

しかも、今回の出来事は一記者の暴走やデスクのチェック機能の不全にとどまらず、朝日全体の意思決定にかかわるさらに深刻な問題をも露呈させた。朝日新聞は、「全社的な調査をした上で」朝鮮語の読めない記者が朝鮮語の封筒を読んだという調査結果を発表し、この事実に対する疑問に一切答えていない。事実関係をあいまいにしたまま、一方的な謝罪でこれを終わりにしようとしている。しかも、家族会からの抗議の内容について、紙面で一切報道していない。

冷静に考えれば、「対話」だけでこのような朝日新聞の体質の問題を解決できないことは明らかだ。同時に「圧力」だけですむ話でもありえない。問題は、圧力をかけつつ、どう対話に引き込むかである。

家族会の抗議に対して、合理的な事実に基づく自己批判で答えられない朝日新聞には報道というものに対する総合的な見識があるのだろうか。報道機関には、その特権と権力に見合うだけの自浄作用が必要である。それがなければ、政府の介入に口実を与え、迷走は続くばかりだ。この詳細が外国のメディアによって報道されれば国際的な失笑を買うだろう。これではとてもジャーナリズムとはいえない。