松井の自我のかたち

イチローや中田の言葉は、たとえ日本語で話していても、まるで英語の字幕を読んでいるようだ。論旨が明解で自我が屹立していている。常に、不変の主体である英語の"I"がしゃべっている。彼らの言葉は、彼らの運動能力同様、はるかな高みにあって、上質のエンターテイメントには成り得ても、普通の日本人が真似することは難しい。

それと比較すると、松井の試合後の談話はずっと日本的だ。「いやあ、まだまだです」などという主語の無い日本的な表現を日本的な文脈で使う。だが、彼には表情があって個性があって思索がある。論理以外にも言葉で表現できるものがあって、松井がそれをしっかり保持したまま、異質の環境に見事に適応していることを、彼の言葉から充分感じることができる。

松井は自分が貫きとおすべきものは何かをよくわかっていて、適応のための努力をした。長年使ってきたバットを変え、日本では見られないような流し打ちをした。ピッチャーを追いこみ内角の玉を投げさせるためだと言う。その結果うまれた二号ホームランは、スイングもボールの軌跡も松井独特のものになった。

そして、この過程を全て楽しみながらやっていることがいい。入団会見の時から、彼はすごく充実したいい顔をしていた。むしろ、ホームランを打った時より楽しそうだった。その点はイチローや中田と共通するものがある。

松井はまさに「葛藤を飲みこんだ男」であり「戦略的に反省できる男」だと思う。松井の自我のかたちは、日本人がグローバルスタンダードの中で、何を守り何を変えるべきかの、ひとつの重要なモデルを提示しているのではないか。