エリートの定義

昔の中国では四書五経が知識の全てであり、科挙とはこれを全部理解しているかどうかを問う試験だった。つまり、エリート、高級官僚、知識人たるものは「世界に存在する知識を、ほぼ全部まるっとわかってる」ことが要求されたのである。

19世紀くらいまでは、この状況はなんとか維持されてきた。例えば、ノーベル賞を取った人が何をやってどう偉い人なのか、何も本を見ないで説明できる人間がたくさんいたと思う。と言うか普通に大学出てる奴は皆それくらいできたはずだ。

「世界に存在する知識をほぼ全部わかってる」奴は、誰がどう言ったって偉い奴であり、そういう連中が束になって国家の行く末を決めていれば、馬鹿な大衆にまかせるよりはマシな結果になるのが当然である。そういう意味では学歴とかエリートという概念とその役割は普遍的なものである。時代や状況に左右されることはない。

変化しているのは「世界に存在する知識」の量と生成のスピートであり、言うまでもなく、現代ではこれを全部理解するのは不可能である。それどころか2ちゃんねるのログを全部読むことだって物理的に不可能である。いや、2ちゃんの全ての板のスレッドタイトルを全部理解できる奴だっていないだろう。

エリートが国家を率いることは善、学歴は重要である。何があっても俺はこの主張を譲るつもりはない。しかし、エリートとは「世界に存在する知識をほぼ全部わかってる」奴であり、学歴とはその認定証明であるという、唐の時代から続いた普遍的な定義も変更すべきではないと思う。