_

江戸時代の日本人は、薩摩とか長洲とか藩というレベルでアイデンティティを持っていた。 99.9%の人間が「自分は日本人」だということを一生のうち一度も考えたことはないだろう。「水戸藩の人間として恥ずかしくなく」とか「御家人の家に生まれて」とかいう思考しかなかった。

それが、昭和のはじめには「日本人」というナショナリズムが暴走してああいうことになったわけだが、どうしてあっというまに切りかえられたかと言えば、世界観の中に欧米という「外部」が出現したからだ。薩摩や長洲のレベルから日本というレベルに切りかえたのだから、同じ理屈で「地球人」というアイデンティティを持とうとしてもうまくいかない。そこに外部がないからだ。宇宙人とつきあいだせば、地球人というアイデンティティを実感できるだろうし、他の銀河系の連中が行き来するようになれば、「銀河系人」という連帯感も持てるかもしれない。

逆に、毎日毎日会社の中に埋没しているような人は、日本人としての自分よりはるかに多く「○○の社員」と自分のことを規定しているだろう。ただ、それはライバルや取引先と接する職種に限られていて、大企業の内勤でその中で閉じた仕事をしている人は、「○○工場の連中は」とか「○○部がいつも問題をおこす」という感じで、部門のレベルでものを考える。

共通点を言うと、その人が「世界全体」と感じるもののひとつ下のサブシステムが、アイデンティティを持ちやすいということなんだよね。そして、その世界に対してアイデンティティを持とうとすると、それを本音として実感として持つためには、どうしても「外部」が必要になる。世界全体のレベルをひとつ広げればそこにアイデンティティを持つことができるようになる。

これは、人間が酸素を必要としたり水がなければ生きていけないのと同じような意味で、ある種の本能として刻みこまれてると思った方がいいかもしれない。坂本竜馬が当時「日本」という発想を実感していたのはすごいことだが、それは単に彼の視野がひとつ上まで広がっていたと考えるべきであって、坂本竜馬でさえ「世界全体のひとつ下のサブシステムにアイデンティティを持っていた」ことは同じなのだ。

ちなみにこれは、人間が自分の心全体を意識できず、その一部を「自我」としてくくりださないとやってけないことに対応している。だから、「外部」抜きで地球人というアイデンティティを持つことは、こころの全体に自我を拡張するような、すさまじい変革なんだよね。地球環境の悪化とかネットとか、そういう地球レベルの発想を要求されることが随分多くなってるけど、相当覚悟をきめて「こころ」を鍛えておかないとこりゃヤバいぞ。