オカルトは初恋の味?
いよいよ1999年7の月だが、私はノストラダムスについていつも思っていることがある。ノストラダムスの「諸世紀」は詩である。それも比喩や音韻などを駆使した非常に文学的な詩である。日本で言ったら、万葉集とか古今集とかそういうものである。ノストラダムスを研究するならば、まずそういう文学の専門家でなくてはならない。そして、ノストラダムスは王様に雇われていたということなので、当時の政治的な状況などをきちんと把握できるだけの歴史的な知識も必要だろう。そういう学者が一次的な解釈、分析をしないと、ちょっとフランス語がわかるだけのオカルト方面の専門家には手が出ないのではないか。
私がそういう観点から分析したのを見たのは、テレビの特命リサーチだけだ。その時はフランス文学の専門家は、「これは当時対立した2つの王国とその王様を暗に皮肉ったものだろう」と言っていた。当時、そういうことを生で言えば簡単に首が飛ぶ。だから、ああいうあいまいな形で表現せざるを得なかった。基本的にはそこから出発するのが妥当だと思う。
ただ、あの番組は(その文学の人も)「あれはニセモノ」という先入観を持っているようなので、それを100%信じることもできない。それに加え、もうひとつ足りないというか、あったほうがいいものがある。それは、文学者としての感性だ。芸術作品には必ず一定の色がある。ゴッホの絵は、一部分を取り出してもゴッホのタッチが濃厚にあるし、*ユーミン*の詩だって良くも悪くも言葉ひとつひとつがユーミンの色だ。個人的なことを言えば、ユーミンのバックの林立夫のドラムなら8ビートを2小説も聞けば、私には彼のものだと断定することができる。ノストラダムスの4行詩も、感性のある人ならば、これが単なる詩なのか別のものなのか見抜けるような気がする。あるいは、予言の中の比喩や描写を見るだけで、ホロコーストや原爆を見て書いたものなのかどうかわかると思う。
梅原猛の「隠された十字架」「水底の歌」などは、そういう文学的感性を最初のとっかかりにしてできたものではないだろうか。できたものを読むと、資料と論理的な考察で実証されているのだが、もともとは直感から生まれた新説なのだと梅原氏本人が言っていた。梅原氏の場合は、直感とか感性とかそういう生易しいものではなく、聖徳太子や人麻呂が乗り移ったかのような独特の情熱に突き動かされているようだが。
同じような例は、超能力の実証実験にもある。物理学者に立ち会わせて、スプーン曲げや念写の実験を行うことは意味がない。ああいう実験に立ち会うべきはマジシャンだ。マジシャンのテクニックで説明できる部分とできない部分を明確にしなくてはいけない。
では、臨死体験みたいに再現不能なオカルト現象はどうだろうか。これは、基本的にインタビューを収集するしか研究の方法がない。そうなると、インタビューの専門家にまかせるのが一番いい。そして、実はこれについては非常にいい本があるのです。立花隆「臨死体験」です。
立花隆は、田中角栄の金脈問題を暴き出した人だ。その手法は、公開された資料と関係者への取材。誰にでも可能な当たり前の素材に、論理的な検証を加えてつじつまの合わない所を探りだす。これを繰り返し徹底してやることで、不正な金の流れを読み取ってしまった。おそらく、この調査をする時点では、口つぐんで不利なことをごまかす人をたくさん相手にしたのだろうが、それを突き破り真実に到達した。
臨死体験にアプローチするには、最も適切な人だろう。立花隆のやり方は、まず最初にものすごい量の事前調査をする。それから、体験者と医者や家族などの関係者にインタビューをする。主観的な体験なので、完全に立証したり否定したりすることは不可能だが、ウラをとったりして確認できない事実がないわけではない。例えば、「魂が抜けてここをこう飛んでこれこれが見えました」と言われれば、その場所へ行って、その角度で何が見えるか確かめる。さらに、ジャーナリストとして、相手の証言の真実味を見抜く目がある。
そういう立花隆が多くの体験者にインタビューした結果が「臨死体験」という本だ。そしてその結論は「どちらとも言えない」。つまり、ウソや幻覚でなくなんらかの客観的な体験があったとは言える。ただ、それが魂がぬけたとか、あの世へ行ってきた体験だとは確証できない。基本的には、脳内現象説と言って、頭の中で起きていることだと思うが、そういうふうにも断定できない。というはなはだあいまいなものでした。ウイリアムジェームスの法則と言って、「信じたい人にとっては十分な証拠、だが疑いたい人を信じさせるには不十分な証拠」というのが結論になっていた。
私は、科学やロジックが完璧なものではないし、世の中のこと全てを人間が理解できるものではないと思う。しかし、科学やロジックは結構使えるものだし、ここにあげた芸術、マジック、ジャーナリズムの他にも人間は他にもいろいろな知恵やテクニックを積み重ねて来ている。オカルトを論じるには、まずそういう風に手持ちの武器を徹底的に駆使して限界までやってみるべきだ。こういうのが理性的というものだと思うが、何故かオカルトはそういうふうに扱われないし、扱われることを望まれていないように見える。どうして、オカルトというテーマは感情的な反応を呼び起こすのか?これはこれでまた論じる価値があるけど別のテーマですね。
余談だけど、ノストラダムス研究家に「事件が起こる前に解釈を言ってみろ」という批判する手法がある。一理あるようだが、私はこれには与しない。事件が起こってからしかわからないような予言書というのは、書こうと思えば書くことができる。例えば「今年、隕石にあたって死ぬ人がいる。彼が死ぬのは自分の誕生日の3日前」こんな予言だったら、事前に死ぬ人を指摘することはできないけど、もしその通りのことが起きたら偶然の一致とは言えない。実際に「聖書の暗号」という本によると、聖書のヘブライ語原文には暗号が含まれていて、数学的な操作で偶然の一致とは言えないような事件のキーワードを聖書から拾い出すことができるそうだ。この本には、取り出す手続きとそれが偶然かどうか検証する方法が、数学の論文として含まれている。例えば、「神戸」と「地震」と「1995」という3つのキーワードが、ある個所に織り込まれているそうだ。個々の言葉(つづり)は偶然に発生しうるが、3つのキーワードが集中して特定の個所に織り込まれているというのは偶然とは言えない。それが偶然に発生する確率は数学的に計算できる。これも、事後取り出し型予言である。3つのキーワードが集中する確率は数学的に計算できるので、何かマジックがあることは事後なら確認できる。ただ、事前に3つのキーワードを抜き出すことも難しいし、それが何をあらわしているのか推定するのはされに難しい。同じようなトリックを芸術的なセンスを使って仕込むこともできると思う。事後に読むと「これはあの事件を描写しているのに違いない」と断定できるけど、事前にそれがどういう事件か読み取ることは難しい詩。ただこれは数学と違い、客観的に証明はできないけど。
そして、余談の余談だが、「事後取り出し型予言」「ウイリアムジェームスの法則」というのに神様の意志が隠れているような気がする。事前に取り出せる予言があったり、臨死体験や超能力が科学的に確定してしまったら人間にはよくない。何がよくないかと言うと、一生懸命ものを考えたり自分で判断したりしなくなる。逆に、こういうものが全くなくても考えなくなる。初恋の恋人のように、自分の前をチラチラするくせに好きなのかどうか聞こうとすると、はぐらかされてしまう。こういう状態においとくのが人間にとって一番いい。そういう風に神様は考えたのではないか。