2000年問題の本質

2000年問題の本質は「多様性の欠如」である。何が一番問題かというと、世界中が西暦という日付のシステムを使っていることだ。

そもそもこの問題は、個々の問題としては大したことではない。よくあるバグ、設計ミスであり、直すのもそんなに難しいことではない。ただ、大したことのない問題でも集中して起こるととんでもないことになる。世界中の何千万、何億というシステムに同時に発生することが問題なのである。対応するためのソフトウエア技術者は不足するし、システムの障害が発生した時、たいしたことのない問題でも、ネットワークでつながったたくさんのシステムで同時に起こることが、予想外の連鎖を引き起こし、大きな問題になることは充分あり得ることだ。

結果論であるが、日本人が和暦にもっとこだわっていたらよかったと思う。日本語を表示しないコンピュータが嫌われるのと同じくらい、和暦が表示されない、和暦で入力できないコンピュータでないと、一般の人は使わないというくらい、文化として和暦にこだわりがあればよかった。

そうすれば、来年は2000年でなく12年だ。日本だけは、2000年問題からまぬがれ、世界中の2000年問題を直す技術者を派遣できるし、とんでもない事態が発生した時の司令基地のような役割を果たすことができたかもしれない。

コンピュータの専門家はシステムを統一したがる。同じOS、同じプロトコル、同じアプリケーションを使わせようとするものだ。おそらく、日本の文化が和暦にこだわる文化だったら「これでは日本のコンピュータは世界から遅れてしまう」と何とか西暦を使わせようとしただろう。実際、一時期、日本語の表示できるパソコンにこだわったために、NECの独自アーキテクチャーが使われ、世界の市場と比較して、非常に高いコンピュータが日本では当然のように売られていたこともある。

しかし、コンピュータというのは統一すると、同じ欠点を全く同じように抱え込むものだ。ウイルスでもセキュリティホールでも、世界中のたくさんのマシンで同じように被害を被ることが問題なのである。例えば、リコールで回収される自動車でも、全てが問題を起こすわけでなく、せいぜい数パーセントに問題が起こるだけだ。ところが、ソフトウエアというデジタルな世界では、欠陥があると全てのコピーで全く同じように欠陥がある。統一がないほうが、コストはかかるが安全である。そして、安全なシステムは最終的には安くつく。

2000年問題は、このような「多様性の欠如」の最も極端な例である。コンピュータ技術者は、これを教訓に多様性と統一のバランスを考えるべきだと思う。