サマータイム対応を0円でやるたった一つの方法

それは、実施日の10年前に告知すること。そうすれば、0円は言いすぎだとしても現実的なコストで問題なく対応できるよ。



自分にとってこれは、「明日から電卓の+キーで引き算をして−キーで足し算をすることに決めた」みたいな話に聞こえる。

誰がうれしいのかちっともわからないけど、「明日から」というところを「10年後から」にしてもらえば、何の困難もない。+と-のキートップの刻印を逆にすればいいだけで、電卓の設計には何の変更もいらない。キーの配置を変えてはいけないと言われたなら、中の配線を二箇所変えるだけ。「電卓の+キーと-キーを逆にすることは不可能である」なんて言う人は誰もいないと思う。

しかし、「明日から」と言われたら、今、あちこちにある電卓はどうするの?

付箋紙をキートップのサイズに切り抜いて、日本全国の家庭やオフィスで、明日の朝一番にそれを貼りつけて、「+」「-」という字を手書きすればいいだろうか。でも、文具店や100円ショップの店頭にあるものはどうする?開封して同じことをして、またパッケージに入れる?そんなもの売り物にならないよね。では、今店頭や倉庫にある電卓は全部廃棄して、新しいのと入れ替えるか。急遽増産したとして、それが行き渡るまでは、電卓が品不足になって値段が高騰するよね。

つまり、流通の途中にある電卓を修正するっていうことは、とても難しい。

電卓だったら半年くらいかな、流通の途中にある製品に手を入れないでいいようなプランになれば、それほど難しいことではないし、お金もそんなにかからない。

今ある工場の生産計画に合わせて、「次の製品から+-逆のキートップで製造してね」と言っておいて、それが十分に行き渡ってから、切り替える。そうすれば、「店頭で全店員総出で電卓を箱から出して、キートップにシールを貼り、また箱に詰めて陳列棚に並べる」なんて、変な作業は発生しない。

それでね、この話で重要なことは、電卓の基盤とか筐体を設計している人が「そんな変更は簡単です、すぐできます」と言っても信じてはいけない、ということだ。むしろ、文具店や100円ショップの店長みたいな人に聞くべきだ。

これは、電卓の専門家でなくてもよくわかる話だし、説明するのも簡単だ。電卓の在庫の山を見せて、その在庫の山の前で、電卓を箱から出してキートップにシールを貼って、また梱包する、そういう一連の作業を見せて、「明日までに、この山を全部消化しなきゃならんのです。社員総出で徹夜でやってますが、とても間に合いません」と言えばいい。

まあでも、ソフトでも同じです。

残業計算でも電車の運行管理でも航空管制システムでも電波時計でもビデオレコーダーでもなんでもいいけど「次の製品からサマータイムするのに、どれくらい余分にかかる?」と聞いてみたら、99%は「別に、次の製品サイクルから対応するなら大した問題じゃないよ」って言うだろう。まあ、さすがにコンピュータで、1%くらいはそれでも何やら難しいこと言って、「無理だ無理だ」って言うかもしれない。でも、それは残りの99%の人がちょっと手を貸してやればいい。なんたって国の威信をかけた大事な問題なんだから、それくらいしたっていいだろう。「次の製品から」とハッキリ言えば、文句を言う人はごく少数だ。

でも、仕掛り中の製品、流通在庫について、同じことをしてくれと言うと、みんな顔色が悪くなる「それはちょっと...」次の言葉が出て来ない。

彼らは、「在庫の山の前で、電卓を箱から出してキートップにシールを貼って、また梱包する、来年までに、この山を全部消化しなきゃならんのです。社員総出で徹夜でやってますが、とても間に合いません」みたいな泣き言を言っている自分を想像しているのですが、その状況がうまくイメージできんのです。

ソフトはリードタイムが滅茶苦茶長い。特に、タイムゾーンのようなOSのレベルの変更だと、基本的には、OSの新バージョンのリードタイムと配布の期間を別に見て、それが完了してからアプリケーションのリードタイムが来る。常に5年から10年の在庫をかかえて商売してるようなもんです。

私が、コンピュータシステムのサマータイム対応を巡る二つの楽観論で通信の問題を中心にとりあげたのは、通信がからむとさらにリードタイムが長くなるからです。つまり、通信というのは、複数の組織がそれぞれのコンピュータで通信することが多くて、その場合、組織同士のマウンティングみたいなことが終わらないと、エンジニアは作業できない。犬が唸りながら睨みあうみたいに、どっちが偉いのか決めてからでないと、通信の仕様を決めるのがどっちか決まらない。

通信の仕様を決めるのは簡単だけど、通信の仕様をどっちが決めるのか決めるのは大変で、私が「リードタイム」と言う時問題にしてるのは通信の仕様を決める時間ではなくて、通信の仕様をどっちが決めるのか決める時間、つまり、マウンティングの時間です。

普通、システム開発はマウンティングが終わってから始まる。そしてマウンティングの結果がひっくり返ることはほとんどない。普通の開発の見積りには、そういう時間は入れない。

でも、サマータイム対応は、マウンティングからやり直すことになって、これは長くなりそうだな、というのが、上記のエントリの話です。

ちょっと違う言い方をすると、コンピュータっていうのは、変動費を固定費に変えるものです。

給料計算をして給与明細を書くのが、社員一人につき30分かかるとします。これを手作業でやってると、このコストは、社員の人数に比例するので変動費です。

コンピュータでやると、プログラムを書くのに、たとえば1000万円かかる。しかし、プログラムを書いてしまえば、社員が1000人でも10万人でもコストはほとんどかからない。固定費です。

もし、そのプログラムに間違いがあって、印刷した給与明細を一枚ずつ修正しなきゃならんとしたら、固定費になったはずのコストが、また変動費に戻る。その時には、社員が1000人と1万人で大きな違いが出る。

そして、今の話の中で固定費と言っているプログラム開発の中にも同じ構造があります。

1000本のプログラムを書くとして、そのプログラムの中に共通の、たとえばタイムゾーン対応があったとして、これを共通の部品にして誰か一人が書けば固定費です。その部品を使うプログラムが1000本あっても10万本あっても費用が変動することはありません。

しかし、その共通の部品が出荷されてから、それを修正しようとすると、1000人のプログラマが、全員、自分のプログラムがその部品の新しいバージョンと動くかテストしなくてはいけない。そして、その1000人が、それぞれ、修正版を客先のコンピュータにインストールしなくてはいけない。これは変動費です。

ソフトの設計、製造、テスト、配布といったサイクルの中には、この「変動費になることを固定費にしてコストを圧縮する」という構造が何重にも入れ子になっています。普通に見えている費用は、圧縮された固定費の費用です。

しかし、サマータイム対応のような想定外のことを後から入れようとすると、いろいろなところで固定費として圧縮されたコストが、変動費としてあらわれてきます。

こういう、ソフトの製品サイクル、その中にあるマウンティングとか変動費を固定費におさえる仕組みというのは、狭義のプログラミングとは別の話で、しかも、業界ごとにかなり事情が違います。

たとえば、私の今の職場では、昨日言われたことを、今日の朝のミーティングで「今日これこれをデプロイ(本番稼動)します」なんていうことが日常茶飯事です。テストは自動化されているし、自動化テストで動作確認できないところは、別のルートがあって別のルートで承認されます。

でも、20年前には、私は、ダムの制御システムを開発していて、これは、ダムのゲートを開きすぎると下流の水位が急激に上がって危険になるという、そういうゲートをコンピュータであけしめするものなので、ありとあらゆる確認を何重にもやります。ここでは、小さな仕様変更でも、基本的に二年後の次のバージョンに回していました。

ただ、どちらも、(狭義の)流通在庫の期間の範囲なら、通常運用で変更できることは同じで、それより短いサイクルで変更を要請されると、かなりアタフタして、他の作業を止めて社員総出でみたいな状況になるのも同じです。

そういうサイクルをひっくりかえすなんてことは、非常事態でなければありえない。

まあ、宇宙からサマータイム星人が攻めてきて、「来年までにサマータイムになってない国は全員滅ぼす」とか言ったならやりますよ。みんな文句も言わずにがんばってやると思う。

そうでない限り、固定費として不可視化されているコストが変動費として爆発して、それを処理するためにマウンティングからやり直す未来しか見えない。

コンピュータシステムのサマータイム対応を巡る二つの楽観論

いきなり来年から日本でサマータイムを導入するという話が出てきて、私には到底実現できない話としか思えなかったが、自民党の少なくとも一部の方々は本気で考えているようだ。そもそも、私にはメリットがどこにあるのかわからないがそれは置いておいて、コンピュータシステム側の対応が非常に困難であるということを、なるべく一般の方にわかるように説明してみたいと思う。

5chとツィッターを眺めて見ると、同業者の人は私と同じ意見が多数であるように見えるが、一部楽観的に見ている方もいるのに驚いた。何事にもいろいろな見方があるので、賛否両論の意見があって議論していけばいいことではあるが、その楽観論を見ていると、全く違う立場の二種類の楽観論がある。何がなんでも自分の立場が正しいと主張する気はないが、この二種類の楽観論が絶対両立しないことは確かで、ここだけはハッキリしておかなければならないと強く言いたい。

最悪のケースは、エンジニアの意見を聞いた所、楽観論Aの人が30%、楽観論Bの人が30%、悲観論の人が40%となった場合だ。AB足して60%だからと言って強行すると、楽観論Aの考えていた方法では、楽観論Bが成立せず、楽観論Bの人の方法だと楽観論Aの人が悲鳴を上げて、結局、どちらの楽観論も実現不可能で悲観論が正しかったということになる。

だから、最終的な結論はエンジニア同士の議論になるなるのかもしれないが、回りの人も、その議論の構図はきちんと理解しておく必要があると思う。

楽観論A: 既存の国際化機能を前提とした楽観論

最初のタイプの楽観論は「サマータイムを実施している国はいくらでもあって、そういう国では普通にコンピュータを使っているではないか!」というものだ。

これは正しい。この手の機能は、インターナショナライザイション(国際化)と言って、画面上の英語のテキストが、日本人が見た時には日本語になるのと同じグループの共通化機能とされている。今では、OSでもプログラミング言語でも、ほとんどが国際化の機能を標準で持っており、その中には、サマータイムを含むタイムゾーン(時差)の処理がある。

だから、日本でのサマータイム導入も、対応するのはOSだけで、ユーザもアプリケーションも何も変更なしで、そのまま対応できるケースもある。

特に、スマートフォン用のアプリなどは、逆に、OSや開発ツールが提供している国際化の枠組みからはずれる方が難しいので、何もしなくてもそのままでサマータイムに対応できるものも多いかもしれない。

ただ、注意すべき点は、この国際化とは、コンピュータ内部では、UTCで時刻の情報を持っていることを前提としていることだ。そして、データを保存したりやりとりしたりする時には、UTCで行う。国ごとのローカルタイムに変換するのは、画面に表示する直前で、それ以外では、時刻が全部UTCになっているということが暗黙の前提となっている。

たとえば、私が 8/7 の 午前 10:00 に5ちゃんねるにコメントを投稿したとする。国際化対応されているプログラムでは、この投稿に、「01:00 UTC」という時刻をつけて保存する。UTCとは時差の基準になる時刻のことで、日本の時間より9時間前になっている。そして、表示する時に、「01:00 UTC」を日本時間(JST)に変換して、「10:00 JST」という投稿時刻を表示する。

もし、5ちゃんねるが国際化対応していて、イギリスの人がこの投稿を見ると、「2:00 BST」という投稿時刻が見えるはずだ。イギリスは現在サマータイム期間中で、その時の日本との時差は8時間になる。サマータイムが終わればそれは「1:00 GMT」になる。

多くの国で使われるプログラムはほとんどそうなっているし、アメリカは国内に複数のタイムゾーンがあるので、アメリカ人専用のプログラムでもそうなっている。

ところが、日本人だけが使うプログラムはほとんどそうなっていない。5ちゃんねるもそうだろうと思ったら、案の定そうだった。

日本のプログラムでは、普通、10:00 に投稿したら、そのまま「10:00」という情報を保存する。そして、専用ブラウザに対して、「10:00」という情報を送信して、専用ブラウザは、それに何の変更もしないで、「10:00」と表示する。

どちらが自然だと思いますか?

10:00 に投稿された情報を「10:00」で保存するのと、10から9を引いて「1:00」で保存して、表示する時に9を足して、「10:00」で表示するという二度手間をかけるのと、どちらが自然だと思いますか?

この「9を引いて」とか「9を足して」という処理が、サマータイム期間中は「11を引いて」と「11を足して」になる。こういう所は、国際化の機能を使うと自動的にやってくれるのだが、日本人しか使わないものは、そもそも足したり引いたりする処理を入れる必要がなくて、自然に10:00で保存して自然に10:00で表示する。

それは、国際的に見て標準的とは言えないし、今後はそれではダメだろうと私も思うが、日本人が日本国内でプログラムを作ると、5chのようなやり方になるのが自然だ。

それに、仕事で作るプログラムでは、エンジニアが必要と思っていても客が必要と思わなければ、そういう機能を入れることは許されない。

楽観論B: システム時刻変更を前提とした楽観論

そして、5ちゃんねるのようにローカルタイムで処理することを当然と思っている人の中にも楽観的に見る人がいる。そういう人は「システム時刻を変更してしまえばよい」と言うのだ。

そういう人も年に二回ある切り替えの日には、いろいろややこしい問題があることは認識しているようだが、そういう時は数時間コンピュータを止めてシステム時刻を変更して起動すればよい、と考えている。

もし、サマータイムの時にシステム時刻を進めれば、私の(サマータイム以前の日本標準時で言う)10:00 の投稿は、12:00 で記録される。そして、それを見る時はそのまま 12:00 で配信され、12:00 で表示される。

つまり、こういう人は、システム時刻=ローカルタイムという前提を持っているので、サマータイム対応というのは、そのシステム時刻を年二回進めたり遅らせたりすることだと思っている。

私には、随分乱暴なやり方に思えるが、単体で動いているコンピュータで信頼性より運用コスト低減の方が重要なシステムならば、そうすることにも一理あるとは思う。

というか、私も以前は、こういう考え方をしていた。

私は、1980年代から2010年頃まで国内のメーカー系SIでエンジニアとして仕事をしてきた。その後、フリーランスになって、国際化の必要な仕事をした。その仕事では、仕様書が英語で書かれていて、最新のWEB技術を使った仕事だったが、技術と英語には困らなかった。しかし、国際化機能の使い方がわからなくて、すごく苦労をした。

だから、今では「そうすることにも一理あるとは思う」とか偉そうに言っているが、ついこの間まで「システム時刻=ローカルタイム」と普通に考えていて、それが一番自然だと思っていた。

1990年頃には、証券に関連するシステムの通信制御システムの開発をしていて、このプロジェクトは「一分落ちたら一億円賠償」とか言われるシステムで品質にはすごく厳しくて、WEB系には技術面でその時のプロジェクトリーダーより上の人はいない、と今でも思っているが、そういう難しいシステムでも確か電文上の時刻はローカルタイムだった。

だから、システム時刻を2時間進めたり遅らせたりと考える人がいて、ローカルタイムで通信しようと考える人がいることも間違いないと思う。

二つの楽観論が出会う時

たとえば、あなたが5ちゃんねるの専用ブラウザの作者だとして、「あなたのアプリではサマータイム導入の時どういう影響がありますか?」と聞かれたら、どう考えるだろうか。

専用ブラウザは、ローカルタイムで送られてきた時刻をローカルタイムのまま表示するだけだから、「こちらで対応することは何もない」と思うかもしれない。つまり、あなたは楽観論Bをもとに「たいしたことない、関係ない」と言う。

しかし、5ちゃんねるのサーバ側は、「サマータイムを導入する以上、これを機会に5ちゃんねるもちゃんと国際化しよう」などと考えて、「来年からUTCで時刻を送ります。専用ブラウザの人は、それをローカルタイムに変換して表示してね」と言うかもしれない。これは「OS標準の国際化機能を使えば、処理は簡単でしょ」という楽観論Aの人だ。

確かに追加する処理は簡単かもしれないが、「何もない」と思ってた所に予定外の作業を入れるのは大変だ。

こういう行き違いがたくさん起こると私は考える。

5ちゃんねるであれば、力関係がハッキリしているからまだいい。

もし、専用ブラウザ側の方が権力を持っていたら、さらに話がややこしくなる。

つまり、「こちらが作業するのが大変だから、サーバ側でサマータイムに対応しろ」と言い出す。従来の日本標準時で10:00に投稿されたものを、「10:00」や「12:00」にして送ってこい、ということだ。

おそらく、ローカルタイムで通信しているシステムでは、こういう問題が必ず起きる。技術的な正論は簡単で通信電文上の時刻はUTCであるべきだ。しかし、それによって作業量が増えてしまうケースもあって、通信のあっち側が負担するかこっち側が負担するかという話だと、これは技術者だけでは決められない。ビジネス的、あるいは政治的な力関係の問題になってしまう。

そういう技術と政治のからんだ綱引きを、納期が絶対に動かせないタイトなスケジュールの中でやることになる。

まとめ

私の懸念することをまとめると「通信電文上の時刻の扱いをどうするか合意が取れないケースには、サマータイム導入への対応方法は簡単には決まらない」ということだ。

つまり、掲示板に10:00に投稿された書き込みをサーバはどう配信すべきか

という選択肢があって、現状すでに 1:00 UTC で統一されているケース以外では、揉めることが避けられないだろうということだ。

「3:00」というのはどういう意味かと言うと、「うちのシステムは、NTPで時刻同期をしてるから、おおもとのタイムサーバの時刻を二時間進めれば問題ない」という意見を見たからだ。

つまり、「NTPが配信している時刻はローカルタイムの事情に動かされることがない固定のUTCである」という前提を理解せずにシステム時刻を変更しようとしているわけで、こういう人は、UTCで通信していてもそのUTCを動かすことを考えるかもしれないと思ったからだ。

そして、この結論によって通信のこっち側とあっち側で対応の工数が変わってくるので、これは簡単に決まらない。

それと、データベース内にローカルタイムが保存されているケースにも、似たような問題が発生して、この場合は、その時刻項目を参照する箇所を洗い出すのが大変だと思う。

そもそも

私は、こういう時に技術者の話が通ることは、日本ではあまりないと思っているのですが、それについては、こちらを参照してください。

スマホのリスクについて教えるなら、大事なのは「パブリック」という概念を理解させること

うーん、この告発の通りなら、この講師の方は、はっきりと間違った知識を子供たちに教えていることになるので、大きな問題だと思います。そこは、すぐに訂正してほしいです。

でも、これは講師の人の個人的な主観というよりは、先生方や保護者の要望を取り入れて数をこなしていくうちに、そういう方向になっていったということだと思います。

個人的には、「子供たちに嘘を教えている」ということに対して、先生方の反応が鈍いということがショックでした。学校の先生というのは初等教育といえども学問を教える人ですから、「知識の正しさ」というものにはもっとこだわりがあってもいいんじゃないかと思います。

それで、「小学校の先生のミッションは何だろう?」ということを考えてしまったのですが、これはおそらく今では「子供たちを守る」ということなんですね。これに必死になりすぎて、他のことを考える余裕がない、保護者も第一にそれを求めてくる。そういうことかなと思いました。

だからこの問題の本質は「先生や親御さんたちは、どうしてインターネットをそれほど怖がり、子供たちにも同じように怖がってほしいと思うのか」ではないでしょうか。今は、インターネットに偏見があって、その偏見を子供たちの押しつけている状態なので、これをなくすことが第一ですが、偏見がなくなって技術を理解したら、インターネットは怖くないものになるのか。

私はこれについて、次のように考えています。

  • インターネットが怖い人は、ネットの中のコミュニティのあり方が現実社会と違うことにとまどっている
  • それに対応できない理由は、ネットの流儀を知らないからではなくて、無意識的に理解、実践している現実社会の流儀を言葉にできず、意識できないから
  • 「インターネットを怖がらない」を目標にするのではなく、両者の(社会構造の)違いを理解することが重要

だから、必要なのは、ネットについての啓蒙ではなくて、「典型的な日本人が社会をどのようにとらえているか」ということを言葉として理解した上で、ネットと対比することだと思います。

こういう観点から、中学生や高校生に対して講演するとしたらこんな感じでどうかな?というものを書いてみました。(やっぱりちょっと難し過ぎるかもしれませんが、本当のターゲットは親御さんと先生方です)




はい、では今からみなさんにスマホについての話をします。

(なんでもいいから、つまらない話を5分ほどする)

さて、ここから本題に入りますが、最初に、ちょっと想像してほしいのですが、みなさんがひとりひとり半透明の繭のようなもので覆われているのをイメージしてください。いいですか、では、その繭をクラス単位で覆うものすごく大きい繭を思い浮べてください。それができたら、今度はもっと大きな、この体育館を全部覆うくらいの、大きな...

(ここで、客席の生徒の一部が騒ぎ出して、先生から注意を受ける)

はい、今の人、ちょっといいかな。名前を教えてくれる?...小宮君ですか。小宮君ね、もう一人の人は... 相田君。はい、ありがとう、小宮君と相田君ね。はい、ありがとうございます。

みなさん、私の話は面白くないですか?たぶん、そうなんですね。今日、これが終わって誰かに「今日の話はどうだった?」と聞かれたら、みなさんは何て答えるでしょうか。

たぶん、一年の他のクラスのみなさんは「二組の小宮が騒いで先生に怒られた」っていうでしょう。二年や三年のみなさんは「今日、一年でうるさい奴がいて、先生に注意された」と言うかもしれません。あるいは、今日来ていらしているおかあさん方は、

「今日、講演の時に騒いで注意された子がいるの、ほら、あの、○○町の小宮さんちの下の子」

「へえ、そうなの、小宮さんとこの?お兄ちゃんはいい子なのににねえ」

とか、噂話をされるかもしれません。

今日は、来賓の方も何人かいらっしゃってます。そういう方は「○○中学校の生徒は行儀が悪いねえ」とおっしゃるかもしれません。

もし、小宮君と相田君が部活の大会で勝ち進んで県大会に出て、そこの開会式で同じようなことをしたら、「○○市の子は」と言われるし、さらに全国大会に進んだら「○○県の子は」です。

私は、帰ってから「最近の中学生はダメだねえ。人の話を聞く態度ができてない」と言うでしょう。

ここで注目してほしいのは、同じ小宮君のことを、それぞれの人が違う呼び方で呼んでいることです。「小宮さんちの下の子」「二組の小宮」「一年の小宮」「○○中学校」「○○市の子」「○○県の子」「最近の中学生」

これが、さきほど、思い浮かべてくださいと言った繭とは、このことです。みなさんは、○○家の一員であり、○○町の住民であり、○○組の生徒であり、○○中学校の生徒である。これが全て見えない繭なんです。

そして、繭の外側に出ていくたびに、そこにいる人たちがみなさんを見る目は変わります。「○○市の子」「○○県の子」と言う人たちは、みなさん個人を見ているのではなく、その繭のようなものの方を見てると言えるかもしれません。

みなさんがここでおとなしくしていないと、それはみなさん個人の恥ではなくて、○○家の恥、二組の恥、○○中学全体の恥になります。つまり、繭の外側にいる人からは、一番外側の繭しか見えません。私は、みなさん全員を「中学生」という繭を通して見ています。だから「最近の中学生は」と言うのです。

みなさんは、今はまだ、先生に注意してもらわないと、なかなかどこに出しても恥ずかしくない○○中学の生徒としてふるまうことは難しいかもしれません。これから、大人になっていくにつれて、先生に言われなくても、その繭の中で「恥ずかしくないふるまい」ができるようになります。

たとえば、みなさんが、将来どこかの会社に入ったとすると、みなさんは「○○会社」の一員であり、その中の「○○部」の一員、「○○課」の一員のように、自分が今いる立場を意識して行動できるようになります。

「恥ずかしくないふるまい」ができるということは、逆に言えば不自由を感じているということです。繭の中にいる人はみんな少しだけ窮屈な思いを感じているでしょう。

みなさんは、これからも見えない繭に何重にも取り巻かれて生きていくでしょう。時にある繭から出て別の繭に入る、それは人生の節目で何度かあると思います。しかし、自分の回りを何重もの繭が取り囲んでいることには違いがありません。

いったいこの話とスマホのどこが関係あるんだ?と思われているかもしれませんね。でも、スマホを扱う時に、一番注意すべきことは実はこの繭のことなんです。

この世界には、繭の外側というものは存在しないのですが、ただ一つだけ、繭の外側に出る方法があります。ただ一つだけある繭の外側、それは、みなさんが持っているスマホの中です。

今日は、ひとつ大事なことを教えます。それは「パブリック」という言葉です。これだけは覚えて帰ってください。

英語の授業では「パブリック」という言葉は「公共の」と教わるでしょう。。でも、インターネットを使っている時には、「パブリック」の意味は「全員に公開」と覚えておいてください。スマホを使っていると、「全員に公開」という言葉を見ることが多いと思います。その時は、「ああ、これは英語のパブリックの意味だな」と思っていいと思います。

そして、この「全員」という言葉は、すべての繭を取り去った状態での「全員」というふうに理解しておいてください。ふつう、「全員」とか「みんな」は、クラスの全員とか友達全員という意味、つまり、ある繭の内側にいる「みんな」を意味していますが、これは「パブリック」でいう「全員に公開」とは違います。日本人全員、いや、外国の人も含めて全ての人間を意味します。

数年前に、飲食店でアルバイトをしている学生さんが、厨房で悪ふざけをしている写真をツィッターに公開して、大きな問題となりました。その人は「全員に公開」を「友達みんなに公開」という意味で受け取っていたのだと思います。

パブリックでない場所で起きた問題は、繭の中で処理されます。

もし、あれがツィッターでなければ、それは彼の仲間うちで話題となり、その中には「ちょっとあれはやりすぎじゃない」と注意する人がいたかもしれません。もし、彼がその忠告を聞きいれずに、もっとやり続ければ、地域の中で噂話となり、先生とか親御さんの耳に入り、そこで彼はひどく怒られて両親に連れられて店長さんにあやまりに行くはめになるでしょう。もし、そこでさらに彼が言うことを聞かなければ、「すごいワルがいる」と彼の名は地元よく知られることになるかもしれません。

つまり、繭の中では、噂は少しづつ広がり、その噂が繭を超えるたびに彼には反省するチャンスがあるのです。そして、彼の悪い評判というペナルティもそれにつれて少しづつ大きくなります。

現実世界では、繭をひとつづつ出るたびに少しづつ危険性が高くなります。RPGで、物語を進めてレベルが上がるたびに、だんだんモンスターが強くなるのと同じです。

しかし、インターネットの中の「パブリック」は、繭を全部取り去った状態での「全員に公開」を意味していて、一晩で日本中から叩かれる騒ぎになるのです。

インターネットは、ある意味ではとんでもないクソゲーです。最初の町を一歩出たとたんに、ラスボス級のとんでもないモンスターがうろついています。途中でやりなおすチャンスがほとんどありません。

でも、パブリックであることは悪いことかと言うと、そうとも言えません。

みなさんは、(近隣の大都市をあげて)○○市に子供だけで遊びに行ったことはありますか?もし、行ったら、きっと、ワクワクドキドキすると思います。ふだんいる繭の外に出る時は、誰でもワクワクドキドキするものです。

上級生と友達になったり、夜遊び歩いたりすることもそうでしょう。本やゲームで物語の中に入りこんで夢中になる時もそうでしょう。みなさんは、いつも繭の中にいて、窮屈な思いをしているので、こういう繭を脱ぎ捨てる行動には、いつもワクワクドキドキするのです。

ワクワクするのは、そこに普段とは違う世界が見えるから、ドキドキするのは、そこには未知の危険があるかもしれないと思うからです。繭をたくさん突き抜けると、ワクワクドキドキ感が強くなります。○○市に行くより東京へ行く方がもっとドキドキするし、外国へ行ったらもっとワクワクします。門限破りも8時より10時の方がワクワクするし、朝まで遊ぶ方がドキドキします。

繭の中では、ワクワクもドキドキも少しづつ強くなっていくので、誰でもちょうどいいドキドキ感がわかります。みなさんはまだ今は、ちょうどいいドキドキ感がわからなくて行きすぎてしまい、先生や親御さんに怒られます。でも、これは、RPGのレベル上げと同じで、怒られながら覚えていけばいいことです。

スマホで遊ぶことは、ドキドキよりワクワクの方が強いかもしれません。実は、スマホで危いことをするのはとても危険なことなのですが、夜遊びや旅行のようなドキドキ感はないと思います。でも、スマホの中に入る時には、全ての繭をいっきに脱ぎすてることなので、本当は、ライオンのいるジャングルに入るくらいドキドキすること、つまり危険と紙一重のことなんです。

これは、悪いことをしなくてもそうです。たとえば、YouTube に動画を投稿したとします。YouTube の動画は「パブリック」なもので、誰でも見ることができて誰でもコメントを書けます。普通、知らない人がコメントを書くことはないですが、もしその動画が面白かったら、たくさんの知らない人が見にきて、その中には思わぬ悪口を書く人もいます。

学校の中で悪口を言われる時には、誰がどういうことを言うかだいたい予想がつくし、そうでなくても悪口を言われた時に、誰がなぜそういうことを言うか、ある程度わかります。でも、インターネットでは、思いもよらぬことで怒り出す人や、ひどい言い方で悪口を言う人がいます。現実世界にもそういう人がいますが、繭の中にいる限り、誰かがそういう人と出会わないように守ってくれているのです。「パブリック」ということは、一切の繭なしに、そういう変な人と直接会うという意味なのです。

だから、本当は、スマホに何か書く時は、ライオンの横を通り抜けるくらいドキドキして、心臓が口から出そうな気持ちになるくらいでちょうどいいのですが、ほとんどの人は、ただの小さな機械に対して、そんなふうに考えることはなかなかできません。

「ワクワク」と「ドキドキ」をつりあわせるのは、難しいことです。

これについては、将棋の藤井聡太さんの活躍が参考になるでしょう。

藤井さんが若いうちから活躍できるのは、もちろん本人に特別な才能があるからですが、それだけではなく将棋というゲームのルールがハッキリしているからです。

将棋には、二歩とか打歩詰めといったルールがありますが、「この手が二歩であるかどうか」ということについて、みんなの顔色を見たり、みんなで話しあったり、先生に意見を聞いたりする必要はありません。将棋をする人なら、誰でも、その手が二歩であるかそうでないかわかります。そして、そのルールの中で勝敗がはっきりと決まります。

YouTube であれば、動画が面白いかどうかだけが問題で、ツィッターであれば、ツィートが面白いかどうかで決まります。小宮君がYouTube に動画を投稿したとして、「おまえ、どこ中の小宮だ?」などと言われることはありません。その動画が面白いかどうかだけが問題で、それは「いいね」や「購読者」の数として、誰にでもわかるランキングになります。

「パブリック」であるということは、誰でも参加できるということなので、その場のルールが誰にでもわかるようになっていないと困ります。そして、インターネットはコンピュータで動くものなので、ルールがコンピュータに組込まれています。半分はみなさんのスマホで動くアプリの中に組み込まれていて、半分はサーバという、スマホが接続するコンピュータに組み込まれています。

藤井さんのように、自分がしたいことがハッキリしている人にとっては、「パブリック」な場のこういう性質は、よいことだと思います。「パブリック」な場は、ライオンの横を通るくらいドキドキしてちょうどいい、と言いましたが、将棋盤の上では、藤井さんがライオンです。どういう猛獣が来ても、将棋盤の上なら彼は誰とでも対等に戦えます。だから、守られる必要はありません。

だから、繭の世界にも「パブリック」の世界にも両方いい面と悪い面があります。

藤井さんがお手本になると私が思うのは、この二つの世界の区別がきちんとできていることです。

将棋は、誰にでもわかるハッキリとしたルールで動いていると言いましたが、プロ棋士の仕事は将棋を指すだけではありません。プロ棋士もひとつの職業であり、日本将棋連盟という団体が主催しているものなので、多くの人がかかわっている繭の世界でもあります。

プロ棋士になるような人は、小学生からその道を進みはじめるので、こういういわば「大人の世界」に入る世話をする人として、師匠という、将棋の世界での親がわりになる人がいます。藤井さんは、将棋盤の上では猛獣のような先輩棋士を遠慮なく負かし続けていますが、盤を離れた時には、この師匠の言うことをきちんと守る、とても良い子です。

いくら天才将棋少年でも、ひとりのプロ棋士として、先輩棋士やスポンサーやファンやマスコミにどういう話をしたらいいのか、そういうことについては、ゆっくりと覚えることしかできません。経験値を積んでひとつづつレベルを上げていくしかないのです。

藤井さんは師匠の言うことをきちんと守り、師匠は藤井さんを繭で守った上で、少しづつ必要な経験ができるようにしています。藤井さんは将棋では師匠よりずっと強いのですが、将棋盤を離れたら師匠に頼らないとやっていけない、自分が将棋に専念するには師匠の言うとおりにした方がいい、そういうことがよくわかっているのだと思います。

みなさんの中には、スマホについて、おとうさんやおかあさんよりよく知っている人もいると思います。また、その中には、自分がしたいことがあって、藤井さんのように大人にまじって腕試しをしたい人もいるかもしれません。そういう人にとっては、ひとつずつレベル上げをしていくようなやり方はまどろっこしく思えるでしょう。

でも「パブリック」な場所の怖さというのは、繭の世界と比べることでしかわからない部分があります。だから、仮に自分が活躍できる場所、ワクワクいっぱいで楽しめる場所を見つけたとしても、その場所が本当に大事だと思うなら、藤井さんのように、大人の言うことをちゃんと聞いた方がいいでしょう。

それと、私が今日「みなさんはたくさんの繭に守られている」と言った時、「回りの友達はそうかもしれないけど、自分は守られてない」と思った人がいるかもしれません。そういう人は、「パブリック」な場所こそがあなたを守る場所になるかもしれません。でも、それは両方が違う性質の場所であることをよくわかって、よく見比べてから決めましょう。

最後にもうひとつ大事なお話があります。

実は、さきほど小宮君と相田君が騒いで怒られたのは、いわゆるヤラセです。私が、先生を通して、二人にお願いしたことです。今日のお話をするために、あそこで騒いで注意される人がいてくれた方が話しやすかったからです。

インターネットには、こういう嘘をつく人がいっぱいいます。「ライオンがうじゃうじゃいるジャングル」と言ったのは、平気で嘘をついて人をダマす人がたくさんいるという意味でもあります。嘘のつきかたにもいろいろありますから、これにも注意してください。

労働問題を伝染病感染防止のように考えてみる

過労死をはじめとする労働問題は、伝染病をどう防ぐかという問題と似たようなところがあると思う。

未知の伝染病が流行ったとしたら、三種類の専門家が必要になる

  • ウィルスの性質をつきとめる生物学者
  • 発症してしまった患者を治療する医者
  • 感染経路をつきとめ、空港などで感染防止策を考える人

この三者は情報交換などで協力すべきことも多々あるが、基本的に違うパラダイムで動いているので、自分の領域外に口を出すのは混乱の元である。

私は労働問題とは、人々が労働というものをどう見るかというミームに、「選択肢はない」という悪いウィルスが感染した伝染病のようなものだと思っている。だから、次のような3種類の専門家が必要だと考えている。

  • A: 人々が労働をどのようにとらえているか研究し、どのようなウィルスが問題を発生させているかつきとめる人
  • B: すでに感染し発症してしまった問題に取り組む人、つまり今起きている労働争議に現場で対応する人
  • C: ウィルスの感染経路をつきとめ、水際での感染防止をする人

この観点から、今話題になっている田端信太郎氏の炎上発言について論じてみたい。

これは、A:あるいはC:の立場の人がB:の問題に口を出している状況だと私は思う。

田端氏が言っているのは「選択肢が無い」というウィルスに感染すると大変だよということだ。この点について、現場の医者は最新のウィルス研究の知識がないと言っている。そう私には見える。

私は、A:やC:の立場での田端さんの発言には同意する。しかしそれが正しいからと言って、集中治療室に乱入して「おまえらのような古い知識で固まった連中には、この病気を治療する資格がない」みたいに言うのは、間違っていると思う。

過労死のような深刻な労働争議を扱うのは、重篤化した感染症の患者を治療するのと同じく、別の専門分野だ。利害が激しく対立していて、法律違反もからむ問題には別の専門的観点が必要だ。ウィルスの正体がわからなくても重症患者にできること、すべきことはたくさんあって、労働問題に関わる弁護士の人たちは、その分野で専門知識を持ち、多くの難しいケースを経験されているのだから、その専門性は尊重すべきだと思う。

特に、個別のケースに立ちいった話をするのであれば、当事者やご遺族の心情に対する共感や配慮は必須である。これは、病室に入る人が消毒をするのと同じような基本中の基本だ。また、臨床の現場にはそれぞれ独自の事情もあるのだから、一括で一律に論じることはできない。

田端さんの最初のツィートは、もともとは、A: と C: の問題意識から出ているように見えるが、途中からB: の問題に立ちいっている。そういう文脈で「過労死は自己責任」というのは間違っていると思う。

個別の悲劇的なケースを念頭に置いて、法的な責任を問うのであれば、直接的な因果関係のみが問題となり、それは労働者を正常な判断ができない所に置いこんだ経営側に100%責任があると私は考える。

ただし、A:問題の根本的原因をつきとめ、C:再発防止の対策を考える時には、共感や感情はむしろ邪魔で、事実を冷静に見なければいけないし、口に苦い言葉も言うべきことは言わなければならない。

こちらの立場から見た時には、労働問題の専門家は経済の実態についての知識が無いまま、他人の専門分野に立ちいることが多いように感じる。というか、今でもマルクスパラダイムから脱しきれてない人が多いように思う。

マルクスパラダイムとは

  • 生産手段は資本家が所有しコントロールしている
  • 従って、資本家と労働者は対等ではなく社会制度は労働者を後押しすべきである
  • 資本家は資本の性質に支配されており、本人の意思と関わりなく邪悪な労働者の敵となる。だから労働者はこれを敵とみなし団結して戦うべきである

これは、生産手段、つまり、経済的な価値の源泉が工場や倉庫や店舗などの有形物である時には正しい。しかし、今の価値の源泉は、人の頭の中にあるアイディア、知識などである。

  • 生産手段は(人の頭の中にあるので)労働者が所有しコントロールしている
  • 社会制度は、価値創造の源泉である生産手段の多様化を後押しすべきである
  • 労働者は労働の多様性を理解し、それを互いに配慮すべきである

という方向に経済や社会の主流が急速に変化している。

田端氏は「ブランド人」なる新著を炎上ついでに宣伝しているようだが、ブランドも主要な生産手段の一つで、これも資本家から労働者に移動しつつある。

制度設計として、法律や政治の問題を論じるなら、田端氏のような、こういう分野で実績がある専門家に意見を聞くべきだと思う。

もちろん、経済の全てがこう変わったわけではなく、古いパラダイムが支配する職場で働いている人もたくさんいるので、全部こちらに合わせればいいとは言えないが、成長力があって今後雇用を支える分野はこうなっている。だから、社会制度はまず新しい経済に合わせて基本的な制度を設計し、それに合わない部分を例外として調整すべきである。製造業が基幹産業であった時代には、制度は製造業に合わせて設計され、他の産業は多少無理をしてそれに合わせて運用していた。それと同じことだ。

しかし、その障害となるのが、労働に対する道徳観念であって「選択肢はない」という信念である。あるいは「あいつらには選択肢があるが自分にはない」

この信念は、信じていればその通りになるので脱することは難しい。つまり、「選択肢はない」と信じていれば、自分に選択肢を増やすための工夫や努力、情報収集ということに頭が行かないので、どうしても知らず知らずのうちに不利な立場に追いやられてしまい、実際に選択肢がない状況が実現してしまい、だからやっぱり「選択肢はない」のが正しいと思えてしまう。そういう現実を目にすることになる。

できれば会社はやめたくないし、やめたりバッくれてみんなに迷惑がかかるとしたら自分が悪い、と考える人が多く、その意識はなかなか変わらない。

そして、労働問題を政治的な文脈で扱う人にとっては、「労働者は一律に一致団結して戦うべきである」という考え方は、政治的なパワーに直結しているので捨てるのが難しい。労働の現場が多様化していて、田端氏が体現しているように、資本家(経営者)と労働者の関係もさまざまであるという現実を受けいれることは、政治的に見るとダメージが大きいので、意識的か無意識的かはわからないが、「資本家は今も昔も強力で邪悪な敵であって、気を許してはいけない」というポジショントークを繰り返している。

マルクスは、経営者が人格的に悪人と言ったのではなく、資本というものにそういう性質があって、それが資本家や経営者を動かすと言ったのであって、資本が人間にさせようとしていることが変わったら、資本家はそっちに支配されると考えるのが、マルクスの正しい理解だと私は思う。

マルクスの真意から離れたポジショントークが「選択肢がない」という信念と結びついていることが、労働問題解決の一番のネックとなっている。これはウィルスのようなもので、感染しているけど問題を発症してない人が動き回って被害を広める。

それで、C:の感染防止策という観点で見た場合、まず「選択肢はない」というウィルスに感染していない人に対して感染を防止するというが一番重要であり、この点では田端氏のやっていることは意義のある有用な社会貢献だと思うし、若い人には多いに参考にしてほしいと思う。

これについては、いじめ問題を研究している内藤朝雄氏も、「学校の選択肢がないことがいじめの根本的原因で、バイチャー制度などで選択肢を増やすべきだ」という趣旨のことを言っていたので、選択肢を増やすことが労働問題についても一番重要なポイントだと思う。

「選択肢がある」という言葉も自己実現性があって、そう信じている人は常に選択肢を意識して、自分の選択肢を増やすようキャリアデザインをするので、やっぱり「選択肢がある」が正しいと思うようになる。そういう現実を多く目にするようになる。こちらも感染性があるウィルスかもしれないが、こっちに感染すれば、もう一方には感染しないので、ワクチンのように感染防止策としては効果がある。

選択肢があるかないかは、実証的に論じることが難しい問題だと思うが、処方箋としては「選択肢はある」とアピールしてそういう状況にある人が身をさらすことはとても有効だと私は思う。

アメフト問題の中に無形のコモンズを巡る葛藤を見る

日大の危険タックル問題は、ネット中立性の問題と似た構図の、コモンズを巡る立場の違いからくる対立が深層にあるような気がする

内田監督と宮川選手の意識の乖離と呼ばれているものは、ルールというものを無形のコモンズととらえるか、当事者間のネゴシエーションととらえるかの違いだと思う。あるいは、コモンズと自分の利害をゼロサムゲームと見るか、自分が依拠しているコモンズを維持、発展させていくことにこそ自分の利益の基盤があると考えるかの違い。

そもそも、アメリカンフットボールのようなコンタクトスポーツで思いきりぶつかれるのは、相手に対して「ここまではやるかもしれないがこれ以上はやらないだろう」という信頼があるからだ。それは単なるルールの条文ではなくて、ダイナミックに変化する試合の中のさまざまなシチュエーションを通して、「こういう場面ではこれくらいはOKだけどこれはありえない」という暗黙の合意があるということだ。

その合意は、過去の多くのプレイヤー、審判、大会の運営者などの関係者が長い時間をかけて、紆余曲折を通って築きあげたものだ。キレイごとではすまない部分も含めて、ゆるやかな合意があるから、このゲームに多くの人が魅力を感じて引き寄せられるのだろう。

空気のようにあってあたりまえでふだんは意識しないけど、なくなってみると、「これがないと我々みんな生きていけないね」というものをコモンズという。もともとは水源や牧草地などの有形の共有資産を指す言葉だけど、今は、むしろ無形のインフラを指すことが多い。

アメリカンフットボールで激しいタックルがどこまで許されるのか、という合意は、まさにコモンズだと思う。これが厳しすぎればゲームの面白さが半減するし、ゆるすぎれば選手が危険にさらされる。これの湯加減についてみんなが合意してはじめて、フットボールが競技として成立する。そして、おそらく、それはいったんできたら固定してそのまま使えるものではなくて、競技の技術や戦術の発展に従って、細かく微調整され続けなくてはいけない。マスコミやファンもそれが共有できるように、努力しなくてはならない。

「コモンズのおかげでみんな生きているのだから、当然、誰もがコモンズの維持に貢献しなくてはいけない」という意識をあたりまえに持てる人と、全くそれが見えない人がいる。

宮川選手は、前者のタイプで、「自分はアメリカンフットボールのコモンズを傷つけた」と考えている。だから、「資格がない」と自分を責めている。

内田監督は、後者のコモンズが見えない人で、ルールというものは、当事者間の合意でしかないから、たとえ問題となっても、関西学院と日大との間で話をつければ良いという考え方だったのだろう。

そして、関東学生アメリカンフットボール連盟が素早く厳しい処分を決めたのも、この問題をコモンズの危機ととらえているからだろう。ここでコモンズを守らないと、今後、選手も監督も、ゲームの中で自分たちは相手と何を競うのかについて、疑心暗鬼になっていく。それは、観客などの周辺にいる第三者にも伝わり、アメリカンフットボールという競技そのものの魅力が失なわれてしまうのではないか、そういう危機感があったように感じる。

コモンズが見えない人は、コモンズを意識する人のことを「幼稚で大人になってない」と見ることが多いような気がする。そういう意味で、内田監督が宮川選手に厳しいプレッシャーを与えて追いこんだことが「教育的な目的のため」というのは、私は嘘ではないと思う。内田監督にとっては、ルールというものを自分と同じように見る人間になることが成長の証しなのだ。

ネゴシエーションによって自分に有利な方向にルールを動かす」ということは、立派な戦術であるだけでなく、そういう視点を持てることが「大人の条件」と考えていたのではないだろうか。大人というのは自分の属するコミュニティの利害を第一に考えるべきで、その利害の一つとして、コモンズを操作して自分の有利な方向に持っていく技術を、宮川選手に身につけさせようとした。だから、逆に言えば、それを極端にあからさまに行なうことは期待していなかった。

しかし、宮川選手は、コモンズの利害=全フットボール関係者の利害という見方から出ようとしなかったので、内田監督は、彼のこの意識を変えようとして、「追い込み」をした。これが宮川選手を、全く出口の見えない混乱に追いこみ、過激な反則タックルとなってしまったような気がする。彼にとっては、コモンズと自分のチームのゼロサムゲームという観点が想像を超えていたので、両者の利害をきめこまかく調整をする、つまり、もう少しわかりにくい反則をしてコモンズの被害を最小限にしつつ自分の利益を最大化するという発想は持てなかったからではないだろうか。

問題の試合後、内田監督は「宮川はひと皮むけた」と上機嫌だったが、宮川選手が「コモンズの利害=全フットボール関係者の利害」という呪縛から脱することができたと思っていたのだろう。

内田監督は、釈明の会見で、4年生と3年生の意識の違いを強調していた。これを場違いな意味不明の脱線と感じた人が多かったようだが、私はこれこそが問題の核心であるように感じる。コモンズが平等にみんなのものであるという「幻想」に執着し、コモンズの隙間をかいくぐり個別のネゴシエーションに引きずり落とすことができる「大人」になろうとしない世代が生まれつつあるのを感じて、その代表として宮川選手を「脱皮」させようとした。

これは「老害」と呼ばれる問題に多く見られる象徴的な構図だと私には思える。

日本が急速に没落しているのは、日本がネゴシエーションの技術を洗練させることで社会のさまざまなシステムを回してきたからだろう。相手や文脈によって言葉を微妙に変えることにネゴシエーションの本質がある。それができる人が「大人」と呼ばれていた。

しかし、今は全ての言葉は潜在的にパブリックであって、いつ録音されどこで公開されるかわからない。全ての個人と組織は常にコモンズに対して一貫した言葉を持てるようにしないといけない。それができて、コモンズの維持発展に貢献できる人間こそが、「大人」と呼ばれるべきだろう。

技術を理解することではなく、技術によって強制的に実体化しつつあるパブリックなものやコモンズを意識した言動が求められているのだ。

ネット中立性の問題も同じだ。インターネットが今のようなものであると多くの人が合意できている状態はコモンズである。この信頼があるから、多くの人が自発的にこれに献身してこれが発展しているのだ。

ネット中立性を無くすことは、この信頼を損なうことによって、特定の誰かが利益を得るということだ。ネットは見る人によって違うものが見えたり見えなかったりする世界になる。単なる通信速度の調整だと言うが、動画中心のユーザにとっては、遅いとはつながってないに等しい。これが進めば、インターネットが「インター」でなくなり、不公正で非効率なバラバラに分断された個別のプライベートな「ネット」になってしまう。

コモンズを損なうことで一時的な利益を得ても、大局的には自分も損しているという現実が見えない人の方が幼稚だと私は思う。

仮想通貨リテラシーで重要なのはブロックチェーンより公開鍵暗号

ビットコインにおける革新はPOWだ。しかし、ビットコインの中では公開鍵暗号という技術も使われていて、ユーザ側から見て重要で理解すべきなのはむしろこちらの方だと思う。

これはちょうど、自動車において、一般ユーザにとっては駆動系より電装系についての知識や常識の方が重要であることと似ている。

「エンジンがかからない」と言われたら、まずセルモーターが回っているのかそうでないのかを確認する。たいていの場合、エンジンの異常ではなくてセルモーターが回らなくてエンジンがかからないので、次にバッテリーが上がってないか確認するために、ライトやラジオをつけてみる。バッテリー切れなら、友達を呼んでブースターケーブルで電気を借りる。

つまり、通常よくあるトラブルに対処するのに必要なのは、電気系の知識だ。

バッテリーの問題ではなくて、本格的にエンジンがおかしいとなれば、JAFか修理工場に電話する。つまり素人にできることはほとんどなくて、専門家に来てもらわないとどうにもならない。自家用車を運転するなら、その切り分けはできた方がいいと思う。

しかし、たとえばメーカーの人は、他社の新車を見る時に、最初にどこを気にするかと言えば、やはりエンジンだろう。

これと似たような視点のズレが、仮想通貨にもあって、専門家が気にするのはPOWだ。もっと正確に言えば、Proof of Work という新しい方法による、創発的な合意形成による分散DBの一意性確保だ。これが革新的で従来になかった発想なので、賛否はいろいろあるが、専門家はビットコインと言えば、まずPOWの話をする。

これと比較すると、公開鍵暗号の使われ方は、常識的で定石通りで何も目新しいことがない。電子署名とかハッシュとか古くから使われている技術を今まで通りの使い方で使っているにすぎない。

だけど、一般ユーザにとってエンジンよりバッテリーの理解が重要で役に立つのと同じように、仮想通貨を使うためには、POWとかブロックチェーンそのものより公開鍵暗号の理解の方がずっと重要だ。特に安全に使うには、これをわかっている必要がある。

そして、重要な違いとして、公開鍵暗号という技術は、これまで広く使われてきたが、鍵の管理がユーザにまかせられているという状況は、これまでなかった。なので、これについて啓蒙することが急務であると私は思う。

と言っても、理解すべき点は非常に単純なことだ。公開鍵暗号とは、閉める鍵と開ける鍵が違う金庫のようなものだと考えればいい。

店員がその日の売り上げを店の奥にある金庫に入れて、翌朝、オーナーがそれを開けて銀行に持っていくとする。オーナーは店員に合鍵を渡さないといけないのだが、入ったばかりのバイトにまで合鍵を渡すのは不安だろう。そうなると夜のシフトは、古顔の信頼できる店員にしかまかせられないことになる。しかしもし、閉める鍵と開ける鍵が違う鍵ならば、開ける鍵はオーナーだけが持っていて、店員全員に閉める鍵の合鍵を渡しておけばいい。閉めるだけの鍵なら、極端に言えば泥棒に渡したって問題ない。

仮想通貨では、閉める鍵が口座番号のようなもので、公開鍵と言う。これは誰に見られてもかまわない。

開ける鍵は、秘密鍵と言って、ある口座から出金する時にはこれが必要になる。ハンコのようなものだ。

仮想通貨を使うには、最初に閉める鍵と開ける鍵のペアを作ることが必要で、開ける鍵、つまり秘密鍵の方を誰にも見られないように厳重に保管しないといけない。私が考える一番重要なリテラシーとは、実はそれだけの話だが、それだけでもない。

秘密鍵は、コンピュータから見ると一つの数字なのだが、人間から見ると数千文字の謎の暗号で、これを覚えることはとてもできないので、ファイルとしてコンピュータの中に保存することになる。このファイルが壊れることがハンコを紛失することで、このファイルをどこかにコピーされることがハンコを盗まれることだ。

だが、仮想通貨においては、秘密鍵がハンコ以上のものだ。

ハンコと違って、秘密鍵の紛失と盗難には一切の救済措置がない。セーフティーネットが何もなくて、金が消える。何百億円でも一瞬で消える。

ハンコが盗まれても、銀行の窓口で犯人の挙動が怪しかったらチェックされるし、監視カメラに残る。何かの売買契約に偽造したハンコを押されてしまったとしても、裁判したり取り戻す方法はある。仮想通貨にはそういう救済措置が全くない。

ブロックチェーンとは、「Aの口座からBの口座に千円送ります」と書いてAさんのハンコが押してある紙が何千枚も束になったもので、このハンコが正しいかの検証は、さすがコンピュータで、一切の間違いなく確実にやってくれるが、ハンコが正しかった場合、つまり、このハンコを押す時にその押した人の手元に秘密鍵のファイルがあった場合には、この伝票をチャラにすることはできない。

仮想通貨のリテラシーとは、この「ハンコを押したら絶対にチャラにできない」ことの容赦の無さを理解していることなのだと思う。

ご存知のように、ハードディスクは壊れるものでパソコンはウィルスにやられるもので、大事なデータに限ってディスクが壊れ、大事な用事をしている時に限ってパソコンは動かなくなる。

だから、秘密鍵を自分で管理するのはあきらめて、取引所という専門家にまかせた方がいいと思うのだが、その時に、自分が何を預けていて取引所が中でそれをどう扱っているのか理解することがリテラシーだと思う。

あるいは、口座を分散して、入れる金額に応じて相応のレベルで秘密鍵を管理することが必要だ。その場合、取引所に長期的に大金を預けることはなくてウォレットというソフトを併用することになるだろう。ウォレットは鍵ペア、つまり口座を作ることもするし、それを用途別に複数作ることもする。本格的に仮想通貨を使う場合は、ここで中で何をやっているかの理解も必要だ。

いずれにせよ、秘密鍵の盗難と紛失には、一切の救済措置がない。

これが、従来の通貨というか従来の金融資産と一番違う所で、これは人間には扱えないものではないかという気もするが、これから無数の仮想通貨ができて、誰もが複数の仮想通貨に分散して、自分の資産を持つことになると思う。その結果、一つの通貨の一つの口座における秘密鍵の盗難と紛失は、我々が今考えるほど致命的な事故ではなくなって、そうなればなんとかなるような気もする。

ビットコインの時価総額=上級国民の不正蓄財の総計

ビットコインの一番面白いことは、誰でもマイナーになれることである。これは本当にすごいことなのだが、そのすごさがあまり理解されていないようだ。

誰でもマイナーになれるということは、悪い奴でもなれるということである。ただ、ひとつだけ条件があって、悪い奴でもかまわないのだが、利己的でないとダメだ。

マイナーというのは、ブロックチェーンのブロックとブロックをつなげる人のことで、これは簡単につながらない大変な仕事である。大変な仕事なので、うまくつなげたマイナーは手数料がもらえる。

たくさんマイナーがいる中で、手数料がもらえるのはただ一番運がいい一人だけで、他のマイナーはそこまでの計算が全部無駄になる。だから、ひょっとしたら、他のマイナーはそいつのしたことはなかったことにし、なんとか別のブロックを生かして、そいつが手数料をもらえないようにしてやりたいと思うかもしれない。

が、ここがビットコインのよくできている所で、「一番長いチェーンだけが生き残る」というルールがある。なので、その運のいいだけの奴がつなげたチェーンの次に自分のブロックをつなげないと手数料がもらえないのだ。ここで嫉妬心に負けたら立派なマイナーとは言えない。

ここで「あいつが手数料を受け取るのは癪だから、自分がもらえないくてもいいから、とにかくあいつのブロックは無視しよう」とか言う奴は、利己的とは言えないので、マイナーになれない。利己的というのは、純粋に自分の利益だけを考える人のことで、一つでも長い既存のチェーンに自分のをつなげる人のことだ。誰が前のチェーンをつなげてその手数料を受け取るのか、そういうことは一切無視して、とにかく自分の儲けだけを考える。そういう利己的な人間だけが良いマイナーになれる。

ビットコインのすごい所は、「マイナーは利己的な奴が多い」という仮定と「一番長いチェーンが生き残る」というルールだけで、チェーンをつなげるという大変面倒くさい作業が自然に回るようにしたことだ。

利己的でないマイナーも多少はいるかもしれないが、人の作業を無視するなら、自分はより多くのブロックをつなげないと手数料がもらえない。その間に、利己的なマイナーは、最新のブロックからつなげて長いチェーンを作ってしまうので、結局、利己的でないマイナーは脱落する。

ブロックには金のやりとりが書かれているので、ブロックのチェーンは、預金通帳のような取引の記録になる。そういう大事なものを利己的で悪い奴に預けられるということが、ビットコインのすごい所である。

普通は、金に関わるものは、公正な良い人にしか預けられない。利己的な悪い行員しかいない銀行なんかに金を預けたら、いっぺんでチョロまかされてしまう。

知り合いで銀行に自分の資産をくいものにされた人がいて、銀行のことを随分恨んでいて「銀行員なんてハイエナだ、ロクな奴はいない。約束を守らない」と怒っていたが、それでもその人も普通に銀行に金を預けていた。

銀行員にどれだけ悪い奴がいるかは知らないが、銀行員はしっかり管理されているので、ほとんどの行員は公正で良い人のように振舞い、金をごまかしたりはしない。

ただ、行員を公正で良い人のように振る舞わせるには金がかかる。普通の会社よりたくさんチェックをして、高いセキュリティの設備を入れて、監査とかそういうことを専門にやる人もたくさんいる。監督官庁も人と手間をかけ、より厳密に監督する。こういうことをきちんとするには、全部コストがかかる。

なにより、給料を多めに払って社会的なステータスも高くしておき、「ここをやめたら大損」と思わせないと、いろいろな誘惑に負けてしまう。

公正で良い人がいないと回らないシステムには金がかかる。利己的で悪い奴にまかせられるシステムは、それよりずっと安い。

だが、ブロックチェーンには弱点もあって、それは、電気代がやたらかかることだ。チェーンをつなげるためには、大変な電気代がかかる。

これは、改良しようがない欠点であって、なぜかと言うと、電気代がかかるようにしておかないと、利己的でないマイナーが長いチェーンを作れてしまうからだ。長いチェーンが何本もできるとビットコインは破綻してしまうので、誰かのつなげたチェーンにみんなが乗っかってくれないと困る。そのためには、チェーンを一個つなげるだけで電気代がかかるようにしておく必要がある。

つまり、これは、電気代を取るか、公正で良い人を抱えるコストを取るかのトレードオフなのだ。

電気代をかけないでチェーンをつなげるプライベートブロックチェーンという方法もあるが、そのためには、マイナーが公正で良い人だという保証が必要になる。意味ある問いは、電気代 or 良い人?だ。

そして、良い人というのは、言葉を変えれば、メンバーシップ管理である。良い人というのは実際にはいないので、メンバーを選抜して、アメとムチで、メンバーに良い人であることを強制する必要がある。

メンバーシップ管理というのは長年行なわれてきて、やり方も広く知られているが、どうしても腐敗と非効率をゼロにはできない。一回中に入ると、惰性で改善を怠ったり、誘惑に負ける者もいて、そういうのを完全に排除することはできない。銀行を恨んでいる人の話をよく聞くと、別に法律的に不正なことをされたり契約不履行をされたわけではない。表面的には公正でリーガルだが、その人にとっては許しがたいことをされたという話で、メンバーシップに権力を与えるとどうしてもそういう話が出てくる。

金融機関というのは、小さい悪いことはしないが、やる時は大きいことをやる。窓口で現金をチョロまかしたりはしないが、インサイダーとか破綻とか、世間をゆるがすようなことをたまにする。

あってはならないことが、本当にないなら、メンバーシップの管理の方が安くなるし、あってはならないことはあってはならないので、コスト計算には普通入れない。だから、あってはならないことのコストは普通勘定に入ってないが、実際にはあってはならないことは起こるし、それを処理するコストは利用者が負担することになる。

利己的な人間の集団は、あってはならないことをあまり起こさないのだが、それはなぜかと言うと、「フォーク」ができるからだ。「フォークされる可能性」が暗黙のプレッシャーとなって、ガバナンスとして機能している。これはリナックスなどのオープンソースソフトウエアと同じだ。

リナックスはフォークができる。つまり、リナス・トーバルスが何か変なことをしたら、別のリナックスを誰でも次の日に作ることができる。その次の日からは、本家と分家でどっちが開発者をたくさん集めるか競争する。オープンソースソフトウエアがうまく行くのは、うまく行かなかったプロジェクトはフォークしてつぶされるからである。つまり、リナックスは、実際に開発に携わっている人たちだけがコントロールしているのではなく、潜在的に世界中のプログラマから監視されているのである。

ビットコインも同じで、誰でもマイナーになれるということは、誰でもマイナーをやめて他のコインに移れるということだ。ビットコインの台帳は全部公開されているので、誰でも俺様コインを作ることはできる。作ることは容易だが、関門はその次の、人を集める段階にある。俺様リナックスも同じだ。俺様コインも俺様リナックスも作ることは容易だが、本家に集っている人や金をうばいとって、自分の所に集めることは大変だ。普通はできない。

ただ、本家が誰の目から見てもおかしなことをやっている場合は別だ。改良を提案して、その改良点を評価する人が多ければ、フォークした新バージョンに人が集まる。ここで本家が反省して、その改良点を真似すると、また本家に人が戻ってしまう。フォークしてそこに継続的に人を集めるのは実際は大変なのだが、それは、出入り自由なら本家が反省するからだ。実際には、本家はフォークされる前の提案の段階で先に反省する。つまり建設的な改良案は全部取りこむし、そういう姿勢を明確に打ち出している。潜在的なフォークに先回りして対応することを本家が強いられているということが、フォークによるガバナンスと私が呼んでいるものだ。

メンバーシップで管理されている本家は、あまり反省しない。痛みをともなう改良などはたいてい握りつぶしてしまう。

だから、オープンソースの本家は、大半の利用者から見て納得できるようなまともな運営が行なわれているのだが、それは、本家の中の人が特別崇高な意思を持っているからではなく、「フォークされる可能性」によるガバナンスが機能しているからである。

ビットコインもそれと似た、潜在的な監視を利用者やマイナーから受けていると思う。ブロックチェーンのフォークにはマイナーだけでなく、開発者や利用者の自由参加も必要だが、それも最終的にはマイナーが自由参加できることで担保されている。手数料を取りすぎたり、特定の人を優遇したりするようなことがあれば、フォークされてしまう。中の人はあやしげな人もいそうだし、多少はなんかやってるかもしれないが、やり過ぎるとフォークされてつぶされることはわかっている。

「あってはならないこと」が見えているのに、それを無視したら、間違いなくフォークされるだろう。

フォークが実際に起きる時は、関係者一同集まっても意見が割れる時で、それは不確実性があって実際に両方試してみることが必要な場合に限られる。フォークはめったに起こらないが、実際に起こらなくても、「あってはならないこと」を起こさないための抑止力としては、日常的に機能している。

フォークの抑止力によるガバナンスは、メンバーシップによるガバナンスと対照的で、小さい所ではあまり機能しない。ビットコインの中の人は、銀行員なんかよりはずっと細かいムダやズルをしていると思う。しかし、「あってはならないこと」を起こさないという点では、ずっと信頼できる。

結局、ビットコインの発明とは、電気代をうんとかけると、悪い奴、利己的な奴を集めるだけで、「フォーク可能性」によるガバナンスのある台帳管理が可能になるということだ。

これがよいものかどうかは、これが置き換えようとしている「メンバーシップによって良い人を強制することによる管理」が起こす「あってはならないこと」の総コストとの比較になる。

これまで、メンバーシップによる管理以外ではまともに回らないものがたくさんあった。だから、それにはどんな弊害があっても必要悪として見過ごされてきた。それを公正に効率的にするための不断の努力は行なわれているが、一定の弊害はあってもしかたないものとされた。それが、これから見直されるのだ。

弊害が大きいというコンセンサスが得られたら、メンバーシップによる管理はやめて、ブロックチェーンに移行するという選択肢がある。もちろん、それが社会に与える影響もとんでもなく大きいものになるが、弊害のレベルによっては、移行すべきだと考える人が多数になるかもしれない。

乱暴にわかりやすく言ってしまえば、ビットコインにどれくらい金が集まるかは、上級国民が今一般国民からだましとっているお金次第だということ。

ビットコインにはPERのような価格のための指標がないと言われるが、上級国民の不正蓄財の額が PER と似たような基準になると私は思う。

不正蓄財が電気代と同じような額なら、ビットコインに移行するメリットはないので、ビットコインには実需はない。不正蓄財がたくさんあれば、電気代をかけても移行することで、経済の循環がよくなるので、ビットコインには実需がある。そして、不正蓄財の額が大きいほどその実需が大きくなる。

不正蓄財と電気代の差額の何パーセントかが、ビットコイン時価総額の理論値になるだろう。

ただし、既存の不正蓄財を掃き出す圧力になるということは、ビットコインへの風当たりも大変なものになるわけで、最終的には理論値に収束するとしても、そこへの道筋はまっすぐなものにはならないだろう。


それと、余談として、ビットコインの匿名性について。

ビットコインは匿名性が高くマネーロンダリングの温床になっていると言われている。これはその通りだとは思うが、この匿名性も従来の匿名性とは意味が違う。

ビットコインでは、全員の銀行通帳が全部アップロードされていて閲覧可能になっている。ただし、口座番号があるだけで、氏名や住所の欄は黒塗りになっている。この黒塗りが絶対に剥がせないという意味では匿名性は高いのだが、取引の相手先、日時、金額は、全部計算機処理をしやすい形でアップロードされている。もし「このビットコインアドレスはAさんのアドレスだ」という情報が流出したら、Aさんの銀行通帳が公開されたのと同じわけで、本当に匿名性が高いと考えてよいのかについては、私は疑問である。

ビットコインアドレスは誰でも無数に作れるので、取引のたびに生成すればよいと言われているが、当人のウォレットには保存しておかないといけないので、強制捜査などでそれを入手できた場合、得られる情報は紙の通帳より多いのではないだろうか。ウィルスやハッキングによる流出でも同じだ。

秘密鍵はきちんとやれば隠しておけるが、ビットコインアドレスは、金を受け取るためには相手に教える必要があって、 普通の社会生活をしていたら、これを隠し続けることは難しいような気がする。しかし、これを知られるのは、通帳を半分公開するのと同じで、匿名性が高いというより、とても重要だが非常に流出しやすい個人情報と考えるべきではないだろうか。

アドレスやコインをたくさん使って、複雑化することもできるが、ディープラーニングとか使えば、一発で犯罪者特有のパターンとかを抽出できそうな気がする。