労働問題を伝染病感染防止のように考えてみる

過労死をはじめとする労働問題は、伝染病をどう防ぐかという問題と似たようなところがあると思う。

未知の伝染病が流行ったとしたら、三種類の専門家が必要になる

  • ウィルスの性質をつきとめる生物学者
  • 発症してしまった患者を治療する医者
  • 感染経路をつきとめ、空港などで感染防止策を考える人

この三者は情報交換などで協力すべきことも多々あるが、基本的に違うパラダイムで動いているので、自分の領域外に口を出すのは混乱の元である。

私は労働問題とは、人々が労働というものをどう見るかというミームに、「選択肢はない」という悪いウィルスが感染した伝染病のようなものだと思っている。だから、次のような3種類の専門家が必要だと考えている。

  • A: 人々が労働をどのようにとらえているか研究し、どのようなウィルスが問題を発生させているかつきとめる人
  • B: すでに感染し発症してしまった問題に取り組む人、つまり今起きている労働争議に現場で対応する人
  • C: ウィルスの感染経路をつきとめ、水際での感染防止をする人

この観点から、今話題になっている田端信太郎氏の炎上発言について論じてみたい。

これは、A:あるいはC:の立場の人がB:の問題に口を出している状況だと私は思う。

田端氏が言っているのは「選択肢が無い」というウィルスに感染すると大変だよということだ。この点について、現場の医者は最新のウィルス研究の知識がないと言っている。そう私には見える。

私は、A:やC:の立場での田端さんの発言には同意する。しかしそれが正しいからと言って、集中治療室に乱入して「おまえらのような古い知識で固まった連中には、この病気を治療する資格がない」みたいに言うのは、間違っていると思う。

過労死のような深刻な労働争議を扱うのは、重篤化した感染症の患者を治療するのと同じく、別の専門分野だ。利害が激しく対立していて、法律違反もからむ問題には別の専門的観点が必要だ。ウィルスの正体がわからなくても重症患者にできること、すべきことはたくさんあって、労働問題に関わる弁護士の人たちは、その分野で専門知識を持ち、多くの難しいケースを経験されているのだから、その専門性は尊重すべきだと思う。

特に、個別のケースに立ちいった話をするのであれば、当事者やご遺族の心情に対する共感や配慮は必須である。これは、病室に入る人が消毒をするのと同じような基本中の基本だ。また、臨床の現場にはそれぞれ独自の事情もあるのだから、一括で一律に論じることはできない。

田端さんの最初のツィートは、もともとは、A: と C: の問題意識から出ているように見えるが、途中からB: の問題に立ちいっている。そういう文脈で「過労死は自己責任」というのは間違っていると思う。

個別の悲劇的なケースを念頭に置いて、法的な責任を問うのであれば、直接的な因果関係のみが問題となり、それは労働者を正常な判断ができない所に置いこんだ経営側に100%責任があると私は考える。

ただし、A:問題の根本的原因をつきとめ、C:再発防止の対策を考える時には、共感や感情はむしろ邪魔で、事実を冷静に見なければいけないし、口に苦い言葉も言うべきことは言わなければならない。

こちらの立場から見た時には、労働問題の専門家は経済の実態についての知識が無いまま、他人の専門分野に立ちいることが多いように感じる。というか、今でもマルクスパラダイムから脱しきれてない人が多いように思う。

マルクスパラダイムとは

  • 生産手段は資本家が所有しコントロールしている
  • 従って、資本家と労働者は対等ではなく社会制度は労働者を後押しすべきである
  • 資本家は資本の性質に支配されており、本人の意思と関わりなく邪悪な労働者の敵となる。だから労働者はこれを敵とみなし団結して戦うべきである

これは、生産手段、つまり、経済的な価値の源泉が工場や倉庫や店舗などの有形物である時には正しい。しかし、今の価値の源泉は、人の頭の中にあるアイディア、知識などである。

  • 生産手段は(人の頭の中にあるので)労働者が所有しコントロールしている
  • 社会制度は、価値創造の源泉である生産手段の多様化を後押しすべきである
  • 労働者は労働の多様性を理解し、それを互いに配慮すべきである

という方向に経済や社会の主流が急速に変化している。

田端氏は「ブランド人」なる新著を炎上ついでに宣伝しているようだが、ブランドも主要な生産手段の一つで、これも資本家から労働者に移動しつつある。

制度設計として、法律や政治の問題を論じるなら、田端氏のような、こういう分野で実績がある専門家に意見を聞くべきだと思う。

もちろん、経済の全てがこう変わったわけではなく、古いパラダイムが支配する職場で働いている人もたくさんいるので、全部こちらに合わせればいいとは言えないが、成長力があって今後雇用を支える分野はこうなっている。だから、社会制度はまず新しい経済に合わせて基本的な制度を設計し、それに合わない部分を例外として調整すべきである。製造業が基幹産業であった時代には、制度は製造業に合わせて設計され、他の産業は多少無理をしてそれに合わせて運用していた。それと同じことだ。

しかし、その障害となるのが、労働に対する道徳観念であって「選択肢はない」という信念である。あるいは「あいつらには選択肢があるが自分にはない」

この信念は、信じていればその通りになるので脱することは難しい。つまり、「選択肢はない」と信じていれば、自分に選択肢を増やすための工夫や努力、情報収集ということに頭が行かないので、どうしても知らず知らずのうちに不利な立場に追いやられてしまい、実際に選択肢がない状況が実現してしまい、だからやっぱり「選択肢はない」のが正しいと思えてしまう。そういう現実を目にすることになる。

できれば会社はやめたくないし、やめたりバッくれてみんなに迷惑がかかるとしたら自分が悪い、と考える人が多く、その意識はなかなか変わらない。

そして、労働問題を政治的な文脈で扱う人にとっては、「労働者は一律に一致団結して戦うべきである」という考え方は、政治的なパワーに直結しているので捨てるのが難しい。労働の現場が多様化していて、田端氏が体現しているように、資本家(経営者)と労働者の関係もさまざまであるという現実を受けいれることは、政治的に見るとダメージが大きいので、意識的か無意識的かはわからないが、「資本家は今も昔も強力で邪悪な敵であって、気を許してはいけない」というポジショントークを繰り返している。

マルクスは、経営者が人格的に悪人と言ったのではなく、資本というものにそういう性質があって、それが資本家や経営者を動かすと言ったのであって、資本が人間にさせようとしていることが変わったら、資本家はそっちに支配されると考えるのが、マルクスの正しい理解だと私は思う。

マルクスの真意から離れたポジショントークが「選択肢がない」という信念と結びついていることが、労働問題解決の一番のネックとなっている。これはウィルスのようなもので、感染しているけど問題を発症してない人が動き回って被害を広める。

それで、C:の感染防止策という観点で見た場合、まず「選択肢はない」というウィルスに感染していない人に対して感染を防止するというが一番重要であり、この点では田端氏のやっていることは意義のある有用な社会貢献だと思うし、若い人には多いに参考にしてほしいと思う。

これについては、いじめ問題を研究している内藤朝雄氏も、「学校の選択肢がないことがいじめの根本的原因で、バイチャー制度などで選択肢を増やすべきだ」という趣旨のことを言っていたので、選択肢を増やすことが労働問題についても一番重要なポイントだと思う。

「選択肢がある」という言葉も自己実現性があって、そう信じている人は常に選択肢を意識して、自分の選択肢を増やすようキャリアデザインをするので、やっぱり「選択肢がある」が正しいと思うようになる。そういう現実を多く目にするようになる。こちらも感染性があるウィルスかもしれないが、こっちに感染すれば、もう一方には感染しないので、ワクチンのように感染防止策としては効果がある。

選択肢があるかないかは、実証的に論じることが難しい問題だと思うが、処方箋としては「選択肢はある」とアピールしてそういう状況にある人が身をさらすことはとても有効だと私は思う。

アメフト問題の中に無形のコモンズを巡る葛藤を見る

日大の危険タックル問題は、ネット中立性の問題と似た構図の、コモンズを巡る立場の違いからくる対立が深層にあるような気がする

内田監督と宮川選手の意識の乖離と呼ばれているものは、ルールというものを無形のコモンズととらえるか、当事者間のネゴシエーションととらえるかの違いだと思う。あるいは、コモンズと自分の利害をゼロサムゲームと見るか、自分が依拠しているコモンズを維持、発展させていくことにこそ自分の利益の基盤があると考えるかの違い。

そもそも、アメリカンフットボールのようなコンタクトスポーツで思いきりぶつかれるのは、相手に対して「ここまではやるかもしれないがこれ以上はやらないだろう」という信頼があるからだ。それは単なるルールの条文ではなくて、ダイナミックに変化する試合の中のさまざまなシチュエーションを通して、「こういう場面ではこれくらいはOKだけどこれはありえない」という暗黙の合意があるということだ。

その合意は、過去の多くのプレイヤー、審判、大会の運営者などの関係者が長い時間をかけて、紆余曲折を通って築きあげたものだ。キレイごとではすまない部分も含めて、ゆるやかな合意があるから、このゲームに多くの人が魅力を感じて引き寄せられるのだろう。

空気のようにあってあたりまえでふだんは意識しないけど、なくなってみると、「これがないと我々みんな生きていけないね」というものをコモンズという。もともとは水源や牧草地などの有形の共有資産を指す言葉だけど、今は、むしろ無形のインフラを指すことが多い。

アメリカンフットボールで激しいタックルがどこまで許されるのか、という合意は、まさにコモンズだと思う。これが厳しすぎればゲームの面白さが半減するし、ゆるすぎれば選手が危険にさらされる。これの湯加減についてみんなが合意してはじめて、フットボールが競技として成立する。そして、おそらく、それはいったんできたら固定してそのまま使えるものではなくて、競技の技術や戦術の発展に従って、細かく微調整され続けなくてはいけない。マスコミやファンもそれが共有できるように、努力しなくてはならない。

「コモンズのおかげでみんな生きているのだから、当然、誰もがコモンズの維持に貢献しなくてはいけない」という意識をあたりまえに持てる人と、全くそれが見えない人がいる。

宮川選手は、前者のタイプで、「自分はアメリカンフットボールのコモンズを傷つけた」と考えている。だから、「資格がない」と自分を責めている。

内田監督は、後者のコモンズが見えない人で、ルールというものは、当事者間の合意でしかないから、たとえ問題となっても、関西学院と日大との間で話をつければ良いという考え方だったのだろう。

そして、関東学生アメリカンフットボール連盟が素早く厳しい処分を決めたのも、この問題をコモンズの危機ととらえているからだろう。ここでコモンズを守らないと、今後、選手も監督も、ゲームの中で自分たちは相手と何を競うのかについて、疑心暗鬼になっていく。それは、観客などの周辺にいる第三者にも伝わり、アメリカンフットボールという競技そのものの魅力が失なわれてしまうのではないか、そういう危機感があったように感じる。

コモンズが見えない人は、コモンズを意識する人のことを「幼稚で大人になってない」と見ることが多いような気がする。そういう意味で、内田監督が宮川選手に厳しいプレッシャーを与えて追いこんだことが「教育的な目的のため」というのは、私は嘘ではないと思う。内田監督にとっては、ルールというものを自分と同じように見る人間になることが成長の証しなのだ。

ネゴシエーションによって自分に有利な方向にルールを動かす」ということは、立派な戦術であるだけでなく、そういう視点を持てることが「大人の条件」と考えていたのではないだろうか。大人というのは自分の属するコミュニティの利害を第一に考えるべきで、その利害の一つとして、コモンズを操作して自分の有利な方向に持っていく技術を、宮川選手に身につけさせようとした。だから、逆に言えば、それを極端にあからさまに行なうことは期待していなかった。

しかし、宮川選手は、コモンズの利害=全フットボール関係者の利害という見方から出ようとしなかったので、内田監督は、彼のこの意識を変えようとして、「追い込み」をした。これが宮川選手を、全く出口の見えない混乱に追いこみ、過激な反則タックルとなってしまったような気がする。彼にとっては、コモンズと自分のチームのゼロサムゲームという観点が想像を超えていたので、両者の利害をきめこまかく調整をする、つまり、もう少しわかりにくい反則をしてコモンズの被害を最小限にしつつ自分の利益を最大化するという発想は持てなかったからではないだろうか。

問題の試合後、内田監督は「宮川はひと皮むけた」と上機嫌だったが、宮川選手が「コモンズの利害=全フットボール関係者の利害」という呪縛から脱することができたと思っていたのだろう。

内田監督は、釈明の会見で、4年生と3年生の意識の違いを強調していた。これを場違いな意味不明の脱線と感じた人が多かったようだが、私はこれこそが問題の核心であるように感じる。コモンズが平等にみんなのものであるという「幻想」に執着し、コモンズの隙間をかいくぐり個別のネゴシエーションに引きずり落とすことができる「大人」になろうとしない世代が生まれつつあるのを感じて、その代表として宮川選手を「脱皮」させようとした。

これは「老害」と呼ばれる問題に多く見られる象徴的な構図だと私には思える。

日本が急速に没落しているのは、日本がネゴシエーションの技術を洗練させることで社会のさまざまなシステムを回してきたからだろう。相手や文脈によって言葉を微妙に変えることにネゴシエーションの本質がある。それができる人が「大人」と呼ばれていた。

しかし、今は全ての言葉は潜在的にパブリックであって、いつ録音されどこで公開されるかわからない。全ての個人と組織は常にコモンズに対して一貫した言葉を持てるようにしないといけない。それができて、コモンズの維持発展に貢献できる人間こそが、「大人」と呼ばれるべきだろう。

技術を理解することではなく、技術によって強制的に実体化しつつあるパブリックなものやコモンズを意識した言動が求められているのだ。

ネット中立性の問題も同じだ。インターネットが今のようなものであると多くの人が合意できている状態はコモンズである。この信頼があるから、多くの人が自発的にこれに献身してこれが発展しているのだ。

ネット中立性を無くすことは、この信頼を損なうことによって、特定の誰かが利益を得るということだ。ネットは見る人によって違うものが見えたり見えなかったりする世界になる。単なる通信速度の調整だと言うが、動画中心のユーザにとっては、遅いとはつながってないに等しい。これが進めば、インターネットが「インター」でなくなり、不公正で非効率なバラバラに分断された個別のプライベートな「ネット」になってしまう。

コモンズを損なうことで一時的な利益を得ても、大局的には自分も損しているという現実が見えない人の方が幼稚だと私は思う。

仮想通貨リテラシーで重要なのはブロックチェーンより公開鍵暗号

ビットコインにおける革新はPOWだ。しかし、ビットコインの中では公開鍵暗号という技術も使われていて、ユーザ側から見て重要で理解すべきなのはむしろこちらの方だと思う。

これはちょうど、自動車において、一般ユーザにとっては駆動系より電装系についての知識や常識の方が重要であることと似ている。

「エンジンがかからない」と言われたら、まずセルモーターが回っているのかそうでないのかを確認する。たいていの場合、エンジンの異常ではなくてセルモーターが回らなくてエンジンがかからないので、次にバッテリーが上がってないか確認するために、ライトやラジオをつけてみる。バッテリー切れなら、友達を呼んでブースターケーブルで電気を借りる。

つまり、通常よくあるトラブルに対処するのに必要なのは、電気系の知識だ。

バッテリーの問題ではなくて、本格的にエンジンがおかしいとなれば、JAFか修理工場に電話する。つまり素人にできることはほとんどなくて、専門家に来てもらわないとどうにもならない。自家用車を運転するなら、その切り分けはできた方がいいと思う。

しかし、たとえばメーカーの人は、他社の新車を見る時に、最初にどこを気にするかと言えば、やはりエンジンだろう。

これと似たような視点のズレが、仮想通貨にもあって、専門家が気にするのはPOWだ。もっと正確に言えば、Proof of Work という新しい方法による、創発的な合意形成による分散DBの一意性確保だ。これが革新的で従来になかった発想なので、賛否はいろいろあるが、専門家はビットコインと言えば、まずPOWの話をする。

これと比較すると、公開鍵暗号の使われ方は、常識的で定石通りで何も目新しいことがない。電子署名とかハッシュとか古くから使われている技術を今まで通りの使い方で使っているにすぎない。

だけど、一般ユーザにとってエンジンよりバッテリーの理解が重要で役に立つのと同じように、仮想通貨を使うためには、POWとかブロックチェーンそのものより公開鍵暗号の理解の方がずっと重要だ。特に安全に使うには、これをわかっている必要がある。

そして、重要な違いとして、公開鍵暗号という技術は、これまで広く使われてきたが、鍵の管理がユーザにまかせられているという状況は、これまでなかった。なので、これについて啓蒙することが急務であると私は思う。

と言っても、理解すべき点は非常に単純なことだ。公開鍵暗号とは、閉める鍵と開ける鍵が違う金庫のようなものだと考えればいい。

店員がその日の売り上げを店の奥にある金庫に入れて、翌朝、オーナーがそれを開けて銀行に持っていくとする。オーナーは店員に合鍵を渡さないといけないのだが、入ったばかりのバイトにまで合鍵を渡すのは不安だろう。そうなると夜のシフトは、古顔の信頼できる店員にしかまかせられないことになる。しかしもし、閉める鍵と開ける鍵が違う鍵ならば、開ける鍵はオーナーだけが持っていて、店員全員に閉める鍵の合鍵を渡しておけばいい。閉めるだけの鍵なら、極端に言えば泥棒に渡したって問題ない。

仮想通貨では、閉める鍵が口座番号のようなもので、公開鍵と言う。これは誰に見られてもかまわない。

開ける鍵は、秘密鍵と言って、ある口座から出金する時にはこれが必要になる。ハンコのようなものだ。

仮想通貨を使うには、最初に閉める鍵と開ける鍵のペアを作ることが必要で、開ける鍵、つまり秘密鍵の方を誰にも見られないように厳重に保管しないといけない。私が考える一番重要なリテラシーとは、実はそれだけの話だが、それだけでもない。

秘密鍵は、コンピュータから見ると一つの数字なのだが、人間から見ると数千文字の謎の暗号で、これを覚えることはとてもできないので、ファイルとしてコンピュータの中に保存することになる。このファイルが壊れることがハンコを紛失することで、このファイルをどこかにコピーされることがハンコを盗まれることだ。

だが、仮想通貨においては、秘密鍵がハンコ以上のものだ。

ハンコと違って、秘密鍵の紛失と盗難には一切の救済措置がない。セーフティーネットが何もなくて、金が消える。何百億円でも一瞬で消える。

ハンコが盗まれても、銀行の窓口で犯人の挙動が怪しかったらチェックされるし、監視カメラに残る。何かの売買契約に偽造したハンコを押されてしまったとしても、裁判したり取り戻す方法はある。仮想通貨にはそういう救済措置が全くない。

ブロックチェーンとは、「Aの口座からBの口座に千円送ります」と書いてAさんのハンコが押してある紙が何千枚も束になったもので、このハンコが正しいかの検証は、さすがコンピュータで、一切の間違いなく確実にやってくれるが、ハンコが正しかった場合、つまり、このハンコを押す時にその押した人の手元に秘密鍵のファイルがあった場合には、この伝票をチャラにすることはできない。

仮想通貨のリテラシーとは、この「ハンコを押したら絶対にチャラにできない」ことの容赦の無さを理解していることなのだと思う。

ご存知のように、ハードディスクは壊れるものでパソコンはウィルスにやられるもので、大事なデータに限ってディスクが壊れ、大事な用事をしている時に限ってパソコンは動かなくなる。

だから、秘密鍵を自分で管理するのはあきらめて、取引所という専門家にまかせた方がいいと思うのだが、その時に、自分が何を預けていて取引所が中でそれをどう扱っているのか理解することがリテラシーだと思う。

あるいは、口座を分散して、入れる金額に応じて相応のレベルで秘密鍵を管理することが必要だ。その場合、取引所に長期的に大金を預けることはなくてウォレットというソフトを併用することになるだろう。ウォレットは鍵ペア、つまり口座を作ることもするし、それを用途別に複数作ることもする。本格的に仮想通貨を使う場合は、ここで中で何をやっているかの理解も必要だ。

いずれにせよ、秘密鍵の盗難と紛失には、一切の救済措置がない。

これが、従来の通貨というか従来の金融資産と一番違う所で、これは人間には扱えないものではないかという気もするが、これから無数の仮想通貨ができて、誰もが複数の仮想通貨に分散して、自分の資産を持つことになると思う。その結果、一つの通貨の一つの口座における秘密鍵の盗難と紛失は、我々が今考えるほど致命的な事故ではなくなって、そうなればなんとかなるような気もする。

ビットコインの時価総額=上級国民の不正蓄財の総計

ビットコインの一番面白いことは、誰でもマイナーになれることである。これは本当にすごいことなのだが、そのすごさがあまり理解されていないようだ。

誰でもマイナーになれるということは、悪い奴でもなれるということである。ただ、ひとつだけ条件があって、悪い奴でもかまわないのだが、利己的でないとダメだ。

マイナーというのは、ブロックチェーンのブロックとブロックをつなげる人のことで、これは簡単につながらない大変な仕事である。大変な仕事なので、うまくつなげたマイナーは手数料がもらえる。

たくさんマイナーがいる中で、手数料がもらえるのはただ一番運がいい一人だけで、他のマイナーはそこまでの計算が全部無駄になる。だから、ひょっとしたら、他のマイナーはそいつのしたことはなかったことにし、なんとか別のブロックを生かして、そいつが手数料をもらえないようにしてやりたいと思うかもしれない。

が、ここがビットコインのよくできている所で、「一番長いチェーンだけが生き残る」というルールがある。なので、その運のいいだけの奴がつなげたチェーンの次に自分のブロックをつなげないと手数料がもらえないのだ。ここで嫉妬心に負けたら立派なマイナーとは言えない。

ここで「あいつが手数料を受け取るのは癪だから、自分がもらえないくてもいいから、とにかくあいつのブロックは無視しよう」とか言う奴は、利己的とは言えないので、マイナーになれない。利己的というのは、純粋に自分の利益だけを考える人のことで、一つでも長い既存のチェーンに自分のをつなげる人のことだ。誰が前のチェーンをつなげてその手数料を受け取るのか、そういうことは一切無視して、とにかく自分の儲けだけを考える。そういう利己的な人間だけが良いマイナーになれる。

ビットコインのすごい所は、「マイナーは利己的な奴が多い」という仮定と「一番長いチェーンが生き残る」というルールだけで、チェーンをつなげるという大変面倒くさい作業が自然に回るようにしたことだ。

利己的でないマイナーも多少はいるかもしれないが、人の作業を無視するなら、自分はより多くのブロックをつなげないと手数料がもらえない。その間に、利己的なマイナーは、最新のブロックからつなげて長いチェーンを作ってしまうので、結局、利己的でないマイナーは脱落する。

ブロックには金のやりとりが書かれているので、ブロックのチェーンは、預金通帳のような取引の記録になる。そういう大事なものを利己的で悪い奴に預けられるということが、ビットコインのすごい所である。

普通は、金に関わるものは、公正な良い人にしか預けられない。利己的な悪い行員しかいない銀行なんかに金を預けたら、いっぺんでチョロまかされてしまう。

知り合いで銀行に自分の資産をくいものにされた人がいて、銀行のことを随分恨んでいて「銀行員なんてハイエナだ、ロクな奴はいない。約束を守らない」と怒っていたが、それでもその人も普通に銀行に金を預けていた。

銀行員にどれだけ悪い奴がいるかは知らないが、銀行員はしっかり管理されているので、ほとんどの行員は公正で良い人のように振舞い、金をごまかしたりはしない。

ただ、行員を公正で良い人のように振る舞わせるには金がかかる。普通の会社よりたくさんチェックをして、高いセキュリティの設備を入れて、監査とかそういうことを専門にやる人もたくさんいる。監督官庁も人と手間をかけ、より厳密に監督する。こういうことをきちんとするには、全部コストがかかる。

なにより、給料を多めに払って社会的なステータスも高くしておき、「ここをやめたら大損」と思わせないと、いろいろな誘惑に負けてしまう。

公正で良い人がいないと回らないシステムには金がかかる。利己的で悪い奴にまかせられるシステムは、それよりずっと安い。

だが、ブロックチェーンには弱点もあって、それは、電気代がやたらかかることだ。チェーンをつなげるためには、大変な電気代がかかる。

これは、改良しようがない欠点であって、なぜかと言うと、電気代がかかるようにしておかないと、利己的でないマイナーが長いチェーンを作れてしまうからだ。長いチェーンが何本もできるとビットコインは破綻してしまうので、誰かのつなげたチェーンにみんなが乗っかってくれないと困る。そのためには、チェーンを一個つなげるだけで電気代がかかるようにしておく必要がある。

つまり、これは、電気代を取るか、公正で良い人を抱えるコストを取るかのトレードオフなのだ。

電気代をかけないでチェーンをつなげるプライベートブロックチェーンという方法もあるが、そのためには、マイナーが公正で良い人だという保証が必要になる。意味ある問いは、電気代 or 良い人?だ。

そして、良い人というのは、言葉を変えれば、メンバーシップ管理である。良い人というのは実際にはいないので、メンバーを選抜して、アメとムチで、メンバーに良い人であることを強制する必要がある。

メンバーシップ管理というのは長年行なわれてきて、やり方も広く知られているが、どうしても腐敗と非効率をゼロにはできない。一回中に入ると、惰性で改善を怠ったり、誘惑に負ける者もいて、そういうのを完全に排除することはできない。銀行を恨んでいる人の話をよく聞くと、別に法律的に不正なことをされたり契約不履行をされたわけではない。表面的には公正でリーガルだが、その人にとっては許しがたいことをされたという話で、メンバーシップに権力を与えるとどうしてもそういう話が出てくる。

金融機関というのは、小さい悪いことはしないが、やる時は大きいことをやる。窓口で現金をチョロまかしたりはしないが、インサイダーとか破綻とか、世間をゆるがすようなことをたまにする。

あってはならないことが、本当にないなら、メンバーシップの管理の方が安くなるし、あってはならないことはあってはならないので、コスト計算には普通入れない。だから、あってはならないことのコストは普通勘定に入ってないが、実際にはあってはならないことは起こるし、それを処理するコストは利用者が負担することになる。

利己的な人間の集団は、あってはならないことをあまり起こさないのだが、それはなぜかと言うと、「フォーク」ができるからだ。「フォークされる可能性」が暗黙のプレッシャーとなって、ガバナンスとして機能している。これはリナックスなどのオープンソースソフトウエアと同じだ。

リナックスはフォークができる。つまり、リナス・トーバルスが何か変なことをしたら、別のリナックスを誰でも次の日に作ることができる。その次の日からは、本家と分家でどっちが開発者をたくさん集めるか競争する。オープンソースソフトウエアがうまく行くのは、うまく行かなかったプロジェクトはフォークしてつぶされるからである。つまり、リナックスは、実際に開発に携わっている人たちだけがコントロールしているのではなく、潜在的に世界中のプログラマから監視されているのである。

ビットコインも同じで、誰でもマイナーになれるということは、誰でもマイナーをやめて他のコインに移れるということだ。ビットコインの台帳は全部公開されているので、誰でも俺様コインを作ることはできる。作ることは容易だが、関門はその次の、人を集める段階にある。俺様リナックスも同じだ。俺様コインも俺様リナックスも作ることは容易だが、本家に集っている人や金をうばいとって、自分の所に集めることは大変だ。普通はできない。

ただ、本家が誰の目から見てもおかしなことをやっている場合は別だ。改良を提案して、その改良点を評価する人が多ければ、フォークした新バージョンに人が集まる。ここで本家が反省して、その改良点を真似すると、また本家に人が戻ってしまう。フォークしてそこに継続的に人を集めるのは実際は大変なのだが、それは、出入り自由なら本家が反省するからだ。実際には、本家はフォークされる前の提案の段階で先に反省する。つまり建設的な改良案は全部取りこむし、そういう姿勢を明確に打ち出している。潜在的なフォークに先回りして対応することを本家が強いられているということが、フォークによるガバナンスと私が呼んでいるものだ。

メンバーシップで管理されている本家は、あまり反省しない。痛みをともなう改良などはたいてい握りつぶしてしまう。

だから、オープンソースの本家は、大半の利用者から見て納得できるようなまともな運営が行なわれているのだが、それは、本家の中の人が特別崇高な意思を持っているからではなく、「フォークされる可能性」によるガバナンスが機能しているからである。

ビットコインもそれと似た、潜在的な監視を利用者やマイナーから受けていると思う。ブロックチェーンのフォークにはマイナーだけでなく、開発者や利用者の自由参加も必要だが、それも最終的にはマイナーが自由参加できることで担保されている。手数料を取りすぎたり、特定の人を優遇したりするようなことがあれば、フォークされてしまう。中の人はあやしげな人もいそうだし、多少はなんかやってるかもしれないが、やり過ぎるとフォークされてつぶされることはわかっている。

「あってはならないこと」が見えているのに、それを無視したら、間違いなくフォークされるだろう。

フォークが実際に起きる時は、関係者一同集まっても意見が割れる時で、それは不確実性があって実際に両方試してみることが必要な場合に限られる。フォークはめったに起こらないが、実際に起こらなくても、「あってはならないこと」を起こさないための抑止力としては、日常的に機能している。

フォークの抑止力によるガバナンスは、メンバーシップによるガバナンスと対照的で、小さい所ではあまり機能しない。ビットコインの中の人は、銀行員なんかよりはずっと細かいムダやズルをしていると思う。しかし、「あってはならないこと」を起こさないという点では、ずっと信頼できる。

結局、ビットコインの発明とは、電気代をうんとかけると、悪い奴、利己的な奴を集めるだけで、「フォーク可能性」によるガバナンスのある台帳管理が可能になるということだ。

これがよいものかどうかは、これが置き換えようとしている「メンバーシップによって良い人を強制することによる管理」が起こす「あってはならないこと」の総コストとの比較になる。

これまで、メンバーシップによる管理以外ではまともに回らないものがたくさんあった。だから、それにはどんな弊害があっても必要悪として見過ごされてきた。それを公正に効率的にするための不断の努力は行なわれているが、一定の弊害はあってもしかたないものとされた。それが、これから見直されるのだ。

弊害が大きいというコンセンサスが得られたら、メンバーシップによる管理はやめて、ブロックチェーンに移行するという選択肢がある。もちろん、それが社会に与える影響もとんでもなく大きいものになるが、弊害のレベルによっては、移行すべきだと考える人が多数になるかもしれない。

乱暴にわかりやすく言ってしまえば、ビットコインにどれくらい金が集まるかは、上級国民が今一般国民からだましとっているお金次第だということ。

ビットコインにはPERのような価格のための指標がないと言われるが、上級国民の不正蓄財の額が PER と似たような基準になると私は思う。

不正蓄財が電気代と同じような額なら、ビットコインに移行するメリットはないので、ビットコインには実需はない。不正蓄財がたくさんあれば、電気代をかけても移行することで、経済の循環がよくなるので、ビットコインには実需がある。そして、不正蓄財の額が大きいほどその実需が大きくなる。

不正蓄財と電気代の差額の何パーセントかが、ビットコイン時価総額の理論値になるだろう。

ただし、既存の不正蓄財を掃き出す圧力になるということは、ビットコインへの風当たりも大変なものになるわけで、最終的には理論値に収束するとしても、そこへの道筋はまっすぐなものにはならないだろう。


それと、余談として、ビットコインの匿名性について。

ビットコインは匿名性が高くマネーロンダリングの温床になっていると言われている。これはその通りだとは思うが、この匿名性も従来の匿名性とは意味が違う。

ビットコインでは、全員の銀行通帳が全部アップロードされていて閲覧可能になっている。ただし、口座番号があるだけで、氏名や住所の欄は黒塗りになっている。この黒塗りが絶対に剥がせないという意味では匿名性は高いのだが、取引の相手先、日時、金額は、全部計算機処理をしやすい形でアップロードされている。もし「このビットコインアドレスはAさんのアドレスだ」という情報が流出したら、Aさんの銀行通帳が公開されたのと同じわけで、本当に匿名性が高いと考えてよいのかについては、私は疑問である。

ビットコインアドレスは誰でも無数に作れるので、取引のたびに生成すればよいと言われているが、当人のウォレットには保存しておかないといけないので、強制捜査などでそれを入手できた場合、得られる情報は紙の通帳より多いのではないだろうか。ウィルスやハッキングによる流出でも同じだ。

秘密鍵はきちんとやれば隠しておけるが、ビットコインアドレスは、金を受け取るためには相手に教える必要があって、 普通の社会生活をしていたら、これを隠し続けることは難しいような気がする。しかし、これを知られるのは、通帳を半分公開するのと同じで、匿名性が高いというより、とても重要だが非常に流出しやすい個人情報と考えるべきではないだろうか。

アドレスやコインをたくさん使って、複雑化することもできるが、ディープラーニングとか使えば、一発で犯罪者特有のパターンとかを抽出できそうな気がする。

今はコードがお偉いさんなんだからMOBは雁首揃えろって話

Mob Programmingって初めて聞いたけど、とてもいい方法に思える。

コードを書く時に、今現在の仕様はわかっていたとしても、今後どうなるか、どういう方向に発展するのか気になって、ビジネス的にその分野に詳しい人の所に聞きに行ってから書きはじめることがあるし、性能的に大丈夫かDBに詳しい人の意見を聞いたり、何か迷った時に過去のプロジェクトで似たようなケースをどっちの方法で解決したか調べたりすることもある。

書き出すとすぐ終わる短いコードでも、書き出す前に、聞きにいったり議論したりする時間が随分かかっていることもある。この時間をかけないと、結局、後で変更になるので、先に聞きにいくのがベターなんだが、チーム全員集まってひとつのコードを書けば、そういう時間を省略できるような気はする。

だから、これが生産性が高いということは感覚的にはすぐ納得できるのだが、一方で、これを導入するために人を説得するとしたら大変だろうな、とも思う。

二人でやるペアプログラミングでも、「それって一本のプログラムを二人で書くってことは、工数が二倍になるんじゃない?」って言われて言葉に詰まったことを思い出す。Mob Programming は、二倍じゃなくて数倍になるので、それを上回る生産性向上がどこから来るのか説明する必要がある。考えただけで頭が痛い。

それで、急にヒラめいたのだが、これって「今はコードがお偉いさん」と言えばいいのではないだろうか?

たとえば、大企業の地方の工場に本社の社長が視察に来るとする。そうしたら工場の幹部が10数人玄関の前に整列して、社長が来るのを待つだろう。社長の車が渋滞で遅れたら、幹部の単価×数時間が無駄になるのだが、誰もそういう工数のことは気にかけない。それどころか、前日にリハーサルまでやったりする。

「お偉いさんには、あらゆる場面で人をたくさんつけるもんだ」というのは説明不要の常識である。役員には秘書がつくもんだし、その秘書も事務作業をやる人から経営的に高度な判断までできる幹部候補生の秘書室長まで、さまざまなレベルのさまざまな技能を持った人がたくさんつくもんだ。

社長にプレゼンする時に、何か質問されて「えっと、今はその、担当者がおりませんので、この件は後日回答」なんてことは許されない。即答できるように関係者全員部屋に集めておくもんだ。

コードを書く時に、多少関係薄そうでも、関わりそうな担当者は有無を言わさず全員集合、というのは、コードがお偉いさんだから、万が一でもコード様に失礼があったり待たせたりすることがあってはならん、と考えれば受け入れやすい。

これは非合理な儀礼ではなくて、社長の時間は貴重で社長の決断の影響範囲は大きいのだから、社長に合わせてしたっぱが振り回されるとしても、それによって社長が正しい判断を素早くできるのなら、会社全体としては最適な方法だと言える。

今はコードの影響力の方が社長より大きくて、社長が右へ行けと言っても、コードが右へ行けるようにできてなければ、会社は右へ行けない。コードが右へ行けるように組んでおくことが会社の将来を左右する。社長よりもっと上の「お偉いさん」が来るとしたら、そりゃチーム全員その部屋に集まるのは当然で、それを一人の担当者にまかせておく従来のプログラミングの方が異常のようにも思えてくる。

コード様が社長より偉いということは、プログラマにデスマをさせればわかると思う。デスマの中でプログラマは苦し紛れにどこで手を抜いたらいいか必死で考える。ひどいコードができるのは当然だが、全てのモジュールが全部一様にひどいということはない。たいていそこにはひどさの濃淡があって、手を抜いたモジュールはもうボロボロでメンテ不能で、二度と修正、拡張できない。会社はこのコードに縛られてそのまま業務を継続するか、高い金を払って作る直すかで、どの業務がそういう目にあうかは、デスマの中では意識モーローのプログラマの気紛れな決断に左右される。

同じ決断を一番いい形でやるのが Mob Programming で、全体の品質も高くなるだろうが、それより会社の方向性とプログラムの拡張性が同じ方向を向いていることが重要だと思う。

企業活動とは、さまざまなステークホルダーからの矛盾を含む要求のトレードオフを取ることであり、その焦点となる場が、昔は経営幹部の臨席する会議であったが、今はコーディングがその決断の現場になっている。ここで企業がどっちを向くかが決まる。

ここになるべく多様なステークホルダー代理人を臨席させることが重要だ。

開発チームは、全員が金太郎飴の一様なプログラマになることはほとんどなくて、それまでのキャリアや担当するサブシステム等によって、自然と特定のステークホルダー代理人になっていく。全員が技術に立脚しながらも観点が散らばるということが重要で、チーム全員が一つのコードを書くというのは、そこでなるべく多くの情報を集約した上で重要なトレードオフを取っているということだと思う。

誰も何も言わずドライバー一人がたんたんとコーディングを進めていくだけだとしても、そのコードに含まれる決定事項がメンバーを通して、さまざまなセクションにフィードバックされていくことに意味がある。

結局、今のように一人でコードを書くってことは、コード様が「ここはどうなっておるのだ?」と言った時に、「えっと、今はその、担当者がおりませんので、この件は後日回答」を連発しているということで、コード様が「お偉いさん」だとしたら、これは随分失礼な話だ。

将棋が強い人が正義でいい、本当に強ければ

将棋のソフト指し疑惑について、第三者委員会の調査結果が発表されました。

私は、この問題について三本の記事を書いています。

いずれの記事でも、不正の有無について直接的な言及は避けていますが、内心では「不正は間違いなくあった」と考えて書いており、普通に読めばそのニュアンスを汲み取れる文章だったと思います。

現時点では、この点については、自分の認識が間違っていたと考えており、第三者委員会の「不正は無かった」という調査結果は充分信頼のおけるものだと思っています。このような記事を書いたことについては、三浦九段および関係者の方におわびします。

ここでは、自分のこの間違った認識がどうして起きたのかについてふりかえりつつ、さらにこの問題について考えてみたいと思います。

報告書で驚いた点

三者委員会の報告書を読んで、私が驚いた点は次の二点です。

  • 竜王戦挑戦者決定三番勝負の第二局、第三局で、連盟理事が対局中の三浦九段を監視していたこと
  • 疑惑の指してについて多くのプロ棋士ヒアリングを行なった所、大半が「不自然な手とは言えない」と回答したこと

前者は、8/26という文春記事よりかなり早い時期に連盟が積極的に調査に動いていたということで、これまで連盟側が強調していた「切羽つまった状況の中での判断」という説明との整合性がありません。

後者は、10/10に行なわれたトップ棋士による「極秘会合」の中で、三浦九段を擁護する棋士がいなかったという話とくい違います。

私にとっては、特に後者がショックでした。会合の席では勢いに飲まれて何も言えないということは充分ありうると思っていましたが、少なくともここで疑惑の対局や指し手について説明があったのですから、参加した棋士は、その後、問題の棋譜を後日自分で検討したことは間違いないと思います。

仮に渡辺竜王がこの後の処分を強引に進めたのだとしても、連盟会長の谷川九段や棋士会会長の佐藤九段が、それに異議をとなえなかったのは、棋譜の中に説明できない手があったからだと思っていました。

一致率の件や、その手をソフトが指せるかどうかについては、将棋ソフトの知識が浅いので、自信を持って判断できなかったり、見解が二点三点することもあると思うのですが、棋譜を見せて「これは三浦さんの手かどうか」という質問には、自分自身で明解な判断を下して、それが揺らぐことはないと思っていました。

私が「不正は間違いなくあった」と考えた一番大きな根拠は、この点です。特に佐藤康光九段がその場にいた以上は、棋譜の中に疑惑の手があると考えるべきだろう、そう考えていました。

三者委員会がヒアリングを行なった棋士の名前は公開されていませんが、状況から見ても棋力から見ても「秘密会合」の参加者が全く含まれていないことは考えられません。しかし、多くの棋士が「不自然な手はなかった」と証言しているということで、これを見て私は考えを変えるべきだと思いました。

ガバナンスの問題?

この新情報を元に考えると、連盟は、全くの無策や傍観だったわけではなく、告発を受けて、調査検討し、「電子機器の持ち込み禁止」というルールを制定することで一応の決着をつけようとしていたのかもしれません。

つまり、「疑惑はあるが確証は得られないので直接的な処分はせず、次善策として対局ルールの強化」という、コンプラ的に見て一般的な対応をしようとしていたのだと思います。

これにストップをかけたのが渡辺竜王だったようです。つまり、渡辺竜王は単なる一告発者ではなくて、連盟が進めていた対応策をひっくりかえして、対局者変更を積極的に進めた当事者であるということです。

私は、連盟の執行部の意思が実質的に不在である状況で、文春の報道という緊急事態が起きたので、第一人者である渡辺竜王が超法規的に動いたものと思っていましたが、その認識も間違いであった可能性が高いと思います。つまり、将棋連盟には、表のガバナンスとは別の、裏の非公式の権力があって、それが執行部の対応をくつがえす形で三浦九段の排除を決めた、ということです。

将棋界は、結局のところ、棋力=発言力で、将棋の強い人が言うことには誰も逆らえないということかもしれません。

二重権力構造をどのように解体するのか

という、推測の混じった観点から、これをどのようにすべきかについて、私なりに書いてみたいと思います。

まず、一般的に考えると、これは二重権力構造の問題です。つまり、公式の意思決定機構と別にプライベートな権力があって、それが恣意的に組織の意思決定に介入したということです。こう見るなら、単に、「裏の」権力を解体せよ、排除せよ、という話になります。

しかし、私は、それだけでは問題は解決しないと思います。

現代の組織における問題は、専門知識と関連して起こります。これに対して、専門知識の有無を問わない単純な民主主義では衆愚に陥ってしまうからです。

将棋における不正の有無はその典型で、棋譜を読み取る力が違えば、まるで違うものが見えてくるので、その点で勝っている人には、それ相応の発言権を与えるのは自然なことです。

今回の問題は、プライベートな裏の権力があったことが問題ではなく、その権力が本来持っていた論理を貫徹できなかったことから起こった、と見るべきだと私は考えます。

竜王フリーザでなくクリリン

つまり「強い人の言うことが無条件で正しい」という論理を貫徹するとしたら、将棋ソフトがプロ棋士より強くなった時点で、竜王や名人の立場が変わらないとおかしいと思うのです。竜王や名人は、絶対的強者ではなく、クリリンヤムチャと同じような、「人間の中では最強」の人です。人間の中で相対的に上位に立つ権利はありますが、フリーザの前ではザコの一人に過ぎません。

もし、大山十五世名人が、下位の棋士の不正を審判するとしたら、「これはあいつに指せるような手ではない」という発言には絶対性を認めてもいいかもしれません。大山名人は下位の棋士が将棋盤の前で行なうことの大半を把握しているからです。

「極秘会談」に集った棋士が同じ観点のみから判定していたら、「これは三浦さんに指せるような手ではない」という渡辺竜王の主張を自信を持って否定していたでしょう。それができなかったのは、そこに自分が把握できてないソフトという存在が関係していたからです。

私は、渡辺竜王が、全くの根拠なく私利私欲で動いたとは思いません。むしろ、明文化されてないけど、将棋界に古くからあった慣習法にのっとって手続きを踏んで動こうとしていたのだと思います。強い人を集めた上で、たとえ一方的であっても論点を主張するという手順を踏んでいます。

問題は、「将棋が強い人」の集りに、ポナンザや技巧が参加できなかったことです。ソフトの開発者を呼べば違ったかもしれませんが、開発者もソフトの強さの理由を全て把握しているわけではないので、どちらかと言えばクリリンに近いポジションで問題の根本的解決にはなりません。

つまり、このプライベートな「トップ棋士会談」は、ガバナンスとかコンプライアンスとは関係なく、将棋指しの考え方を徹底していれば、集ったその場で「俺たちには、これを左右できる権利はないね。参考意見くらいは言わしてもらうけど」ということに気がついたはずです。

大山名人は、「機械に将棋なんか教えちゃいけません」と言ったそうですが、もしこの場にいたら、それに気がついたかもしれません。自分が独裁権力をふるうことを正当化していたその根拠を信じてそれをきちんと理解していれば、同じ論理がこの「トップ会談」を解体する根拠になると理解できたでしょう。

一刻も早く三浦九段の名誉回復を

ということで、私としては、「原点」に戻ることを将棋連盟と渡辺竜王に強く求めたいと思います。

「原点」とは二つの意味があって、一つは、名人や竜王の絶対性が失なわれた以上、連盟の運営は人間界のルールで行なうということです。

「人間界のルール」とは間違いを許容するということです。民主主義でも三権分立でも人間界のルールは、人間が間違うことがあるということを前提にできています。

間違いを許容するということは、間違った時に積極的にそれを修正しなくてはいけないということで、三浦九段の名誉と経済的損失を取り戻すための努力をするということです。具体的には、謝罪や損害の回復は当然として、谷川会長の辞任と外部理事の招聘を含む執行部の改革も必要だと思います。

もう一つの「原点」は「将棋が強い者の言うことが絶対」という将棋界の常識の原点です。

繰り返しますが、私はこの常識を否定すべきとは思いません。むしろ、これを大事にして貫徹すべきだと考えています。

ひょっとして、谷川会長や渡辺竜王は、「三浦シロ」を表明する以上は、今度こそ間違いが許されないと思っていて、その確信を持てないので踏み出せないのかもしれません。

しかし、「将棋が強い者の言うことが絶対」という将棋界の伝統を本当に守るとしたら、ソフトの問題については「絶対的な者はいない」ということになります。

人間界のルールでは、間違いの有無ではなくて手続きの正当性や透明性が問われます。仮に「三浦シロ」という判断が間違っていても、そこに至るプロセスが妥当であれば許容されるのが人間界のルールです。

その代わりに、一定の手続きを経て出た結論には、全身全霊従うのが人間界のルールです。それに従うことが同時に将棋界の伝統にもかなうことになると私は思います。


なぜこの問題に言及するか -- 広義の「フレーム問題」として

最後に、なぜこの問題に繰り返し言及するかと言うと、ひとことで言うと「これはとても他人事とは思えない」からです。

これは、AIを中心とした技術の進展から、多くの分野で発生する典型的な問題である。私はそのようにとらえています。

別の言い方で言うと広義の「フレーム問題」と見ています。「フレーム問題」とは人工知能の分野での古典的な難問ですが、ここでは将棋を例として説明してみます。

将棋で「詰将棋」や「次の一手」と呼ばれる問題があります。ある局面を提示して、次に指すべき手を当てるというゲームです。このゲームではルールは将棋のルールをほぼそのまま踏襲していて、将棋の棋力向上のための練習問題として実力のレベルの応じた数多くの問題が作られています。

こういう問題をたくさん解いて訓練した人は、間違いなくやる前より棋力が向上していると言えるのですが、ひとつだけ実戦との違いがあります。

それは、実践の中で、問題を解くことで得たノウハウを応用すべき時はいつかということです。ある局面が、問題として提示される時には、「正解」があることが保証されています。詰将棋なら詰める手順が一つだけ存在することが保証されていて、「次の一手」なら、状況を劇的に好転する手があることが保証されています。

それを知っていて考えるのと、そういう前提がなくて、詰みがあるかもしれない無いかもしれない、いい手があるかもしれないないかもしれない、という実戦の中で似たような局面について考えるのでは、全く違います。

将棋ソフトでも「詰みの発見」はコンピュータにとって簡単な処理なので、早くから詰将棋を早解きする専用ソフトが開発されてきましたが、実戦の中ではCPUを100%詰みの発見の処理に割り振っていいとは言えないので、対戦ソフトが詰みを発見する能力は、多くの場合詰将棋専用ソフトより劣っていました。

人間は「ここは詰みがありそうだ」とか「ここ数手は勝敗を左右する場面なので慎重に時間をかけて考えよう」ということが自然にわかる、少なくとも特にその点について努力しなくても、詰将棋の能力の向上にともなって、「いつ詰めを探すべきか」という判断する能力も自然に向上します。

しかし、機械にとって、ある「枠組み(=フレーム)」の中で最適な解を求めることと、いつそのフレームを適用すべきか判断することは、難易度が決定的に違います。これが「フレーム問題」のもともとの意味ですが、私はこれと同じ困難が人間や人間社会にもこれから多く発生すると予想して、それを広義の「フレーム問題」と呼びたいと思います。

現代社会は、多くのフレームが整備され、フレームの中での最適解は多くの場合検索を使うことで簡単にわかります。たとえば、不正ソフトの問題も司法の枠組みで考えるべき点、統計の枠組みで考えるべき点があって、これらの枠組みでは何が正しいか、どうすべきか、という答は簡単に見つかります。

しかし、複数の枠組みが重なって適用される時に、どの枠組みを優先して、どの枠組みを除外して考えるべきかという判断は難しく、簡単に一致する答がないこともあります。

AIを中心とした技術の発展は、平和的に棲み分けているたくさんの枠組みが組合わさった構造を壊して、一からフレームを選択していくことが必要な事態を起こすことが多い。

今回の不正の問題は、特に処分間際の時間的に切迫した状況においては、その典型的なケースだと思います。情報が不十分な段階から私がこれに繰り返し言及するのは、自分がその時点でどのようなフレームを優先して、どのようなフレームの組み合わせで考えたのかと言うことを記録しておきたいからです。

後になって、すべてのフレームが確定してから読み直すと、いろいろ不適切なところが見えてくるかもしれませんが、フレームが不確定な状態で自分が何をどのように考えていたのか知る機会はそんなに多くありません。いずれ、自分の身の回りにもそういうフレームの再構築が起こるに違いないと私は思うのですが、その時に多少は参考になるのではないかと考えています。

「千田率」によって裁かれる恐怖

(2017/01/03 追記

この記事内の不正の有無に関する見解について私は後日考えを変えました。詳しくは下記の記事を参照ください。

追記終わり)

将棋ソフト問題はいよいよ混迷を深め、渡辺竜王の告発の正当性が疑われる事態となっている。なかでも、不正の疑いの根拠の一つとしてあげ(て後に撤回し)た「一致率」という数値が統計的な根拠の薄いものだという批判が多いようだ。

確かに、千田五段の公開したデータは、対象となる手が恣意的に選択されていて、三浦九段の過去の対局や他の棋士のデータとの比較がなく、分散も考慮してないので、統計的にはナンセンスである。「千田率」と揶揄されてしまうのも仕方ないかもしれない。

しかし、もし三浦対渡辺の竜王戦が行なわれていたら、多くの将棋ファンがこの数値を目にすることになっただろう。技巧はフリーで公開されており、多くの将棋ファンが日常的に使っている。注目の集まるタイトル戦ともなれば、そこで「一致率」が高いことが話題になるだろう。千田五段が行なった手の選別は、アマチュアでも高段者なら容易にできることで、「それに対して説明できますか?」というのが、渡辺竜王が突き付けた問い掛けなのだと思う。

突き付けられたのは、第一には、谷川会長や羽生三冠を始めとする「極秘のトップ会談」に集った棋士たちである。

私は、この出席者は全員、少なくとも、対象となった三浦九段の棋譜に対してなんらかの異変は感じたのだと思う。この異変に対して「一致率」という数値で疑いをかけられた時に、胸をはって「それは偶然だ」「それはナンセンスだ」と言いきれるのか。

そして、同じ問い掛けが三浦九段にも行なわれ、「疑われているなら対局はできない」という発言につながったのではないか。最終的な質問の場で、どのようなやりとりがあったのかは、双方の意見が食い違っていて、詳細は確認できないが、渡辺九段の告発の真の意図は「ファンはあなたの将棋を技巧と比較して観戦していますよ。それで何を言われてもいいのですか?」ということなのだと思う。

渡辺竜王は、将棋を「興業」として見る意識が強いのだと思う。この点では、他の人と違いがあるかもしれない。「三浦の千田率高いw」というファンからの目線に対して説明するのは、言われた棋士本人の責任ではなく、将棋界全体の責任だという意識が他の関係者より濃いのだと思う。

もしここで、「棋士をなめるな!」と怒る人が誰か一人でもいて、「そういうこと言う奴が言たら俺が責任を持って反論する」と説明責任を引き受けてくれるなら、渡辺竜王は安心して、告発を取り下げただろう。それが三浦九段本人であれば一番いいが、そうでなくてもトップ棋士の誰かがそう言えばよかった。

「千田率」は三浦九段のクロの確証とはならないが、将棋界全体へのファンからの不信を致命的に高めるには充分な数値なのである。

これは、三浦九段のクロシロとは関係なく、告発の時点で確定している事実で、渡辺竜王の踏んだ手順は充分なものだと思う。もし、これが疑惑の4局と同様、高いままで維持されれば当然話題になるし、突然低くなれば、そのギャップが話題になる。単に週刊誌のスキャンダルだけであれば、「馬鹿げている」と黙殺しておけばいいが、ここに「千田率」が加わった時にどうするのか。「統計的には無効です」と専門家が言えば騒動はおさまるだろうか。

渡辺が三浦を「千田率」で裁いたのではなく、将棋界が「千田率」で裁かれることを読んだ渡辺が裁かれる側に立って行動したのだ。


ここで私が残念に思うことが、将棋というゲームの独特の面白さが、この誤解が拡大する要因の一つになっていることである。

将棋は、「完全情報非ゼロ和ゲーム」という種別に属していて、これが意味するのは将棋の神様はこの世で一番将棋を楽しめない人であるということだ。将棋の勝敗はルールを決めて盤の前に両者が着席した瞬間に決まっているだが、神様にはその勝敗が見えても人間には見えない。充分なCPUがあればコンピュータにも見えるが、地球上の全てのCPUを足しても見えない。地球上の全てのCPUどころか、地球上の全てのシリコンを掘り出して全部CPUにしても見えない。計算量が多すぎるのだ。

それによって将棋は、単純で決定的なルールでできているのに、先が見えない中で「思考の省略」を競うゲームになる。「思考の省略」の中には対戦相手の思考方法をシミュレートして、それによって思考を省略することも含まれる。それによって、将棋は複雑なゲームになり、盤内盤外からさまざまな要素を抽出して選択することを競うゲームになる。この「思考の省略」の中にはさまざまな個性があらわれてくるし、ゲームの性質も局面ごとに変化していく。

ある時には、単純なパズルの早解き競争になるし、ある時はマラソンのように正確な読みをどちらが長時間続けるかの勝負になるし、ある時は受験のように事前の勉強量の勝負である時は、相手の意図を読みあいハッタリをかけるポーカーのようなゲームになる。しかも、そういう要素が複雑にからみあい、一手指すごとにゲームの種類が変化していく。

そんな複雑なゲームでは、初心者には何もわからないのかと言うと、言わばフラクタルな側面もあって、初心者には初心者なりの楽しみ方があって、中級者にはそれなりの楽しみがある。初心者がプロの対局を見てもちょっと解説があるとわかった気になって楽しめる。

そして、おそらく、上に行けば行くほど、より複雑な地形が見えてくるのだ。棋譜から「思考の省略」という地形を深く読み取る中に顔写真のように個性が浮かびあがってくるのだろう。

だから、トップ棋士が「これは三浦九段本人の手には思えない」と言った時、彼らの中には確信というより、「棋譜の中にひとつの事実を目撃した」という感触があるのだが、それをA級の棋力の無い人に説明するのが難しいのだと思う。

それは単に強い人や突然強くなった人の手とは違うのだと思う。集まった棋士みんな羽生さんの人外の手に何度となくやられた人であり、その羽生さんも今は連盟会長の谷川さんに一瞬で切り殺された経験が何度もある。「これは人間には読めない素晴しすぎる手だから人間に指せるものではない」とは簡単には言えない人たちである。将棋を一番よく知っていて、なおかつ自分が将棋を知らないことを経験からよく知っている人たちだ。

つまり、羽生谷川という人間の限界を、一番近くで自分の人生の最も切実な課題として見てきた人たちであり、そういう人たちが揃って「重い沈黙」に沈んだということの意味は重い。

私から見ると、これは疑惑というより、「目撃者」が7人いたという事件に見える。ただ、丸山九段のように現場にいたけど何も見なかったという人がいて、そもそも、三浦九段も「目撃者」になれるレベルの人なので、どのようにうまくやっても棋譜が残る以上、現場を棋譜の中で「目撃」する人がいることはわかるはずだが、とも思う。

将棋の中には、棋力という解像度によって全く違うものが見えてくるのに、棋力が違う人の言うことも断片的には意味がわかる。だから、疑惑の将棋の棋譜を見て、彼らが何を考えたのか、わかる部分とわからない部分があって、それが複雑にからみあってくるので、一度不信の目で見ると、とめどもなく不信が高まるのだと思う。

それが将棋の面白さと同型なのである。