今はコードがお偉いさんなんだからMOBは雁首揃えろって話

Mob Programmingって初めて聞いたけど、とてもいい方法に思える。

コードを書く時に、今現在の仕様はわかっていたとしても、今後どうなるか、どういう方向に発展するのか気になって、ビジネス的にその分野に詳しい人の所に聞きに行ってから書きはじめることがあるし、性能的に大丈夫かDBに詳しい人の意見を聞いたり、何か迷った時に過去のプロジェクトで似たようなケースをどっちの方法で解決したか調べたりすることもある。

書き出すとすぐ終わる短いコードでも、書き出す前に、聞きにいったり議論したりする時間が随分かかっていることもある。この時間をかけないと、結局、後で変更になるので、先に聞きにいくのがベターなんだが、チーム全員集まってひとつのコードを書けば、そういう時間を省略できるような気はする。

だから、これが生産性が高いということは感覚的にはすぐ納得できるのだが、一方で、これを導入するために人を説得するとしたら大変だろうな、とも思う。

二人でやるペアプログラミングでも、「それって一本のプログラムを二人で書くってことは、工数が二倍になるんじゃない?」って言われて言葉に詰まったことを思い出す。Mob Programming は、二倍じゃなくて数倍になるので、それを上回る生産性向上がどこから来るのか説明する必要がある。考えただけで頭が痛い。

それで、急にヒラめいたのだが、これって「今はコードがお偉いさん」と言えばいいのではないだろうか?

たとえば、大企業の地方の工場に本社の社長が視察に来るとする。そうしたら工場の幹部が10数人玄関の前に整列して、社長が来るのを待つだろう。社長の車が渋滞で遅れたら、幹部の単価×数時間が無駄になるのだが、誰もそういう工数のことは気にかけない。それどころか、前日にリハーサルまでやったりする。

「お偉いさんには、あらゆる場面で人をたくさんつけるもんだ」というのは説明不要の常識である。役員には秘書がつくもんだし、その秘書も事務作業をやる人から経営的に高度な判断までできる幹部候補生の秘書室長まで、さまざまなレベルのさまざまな技能を持った人がたくさんつくもんだ。

社長にプレゼンする時に、何か質問されて「えっと、今はその、担当者がおりませんので、この件は後日回答」なんてことは許されない。即答できるように関係者全員部屋に集めておくもんだ。

コードを書く時に、多少関係薄そうでも、関わりそうな担当者は有無を言わさず全員集合、というのは、コードがお偉いさんだから、万が一でもコード様に失礼があったり待たせたりすることがあってはならん、と考えれば受け入れやすい。

これは非合理な儀礼ではなくて、社長の時間は貴重で社長の決断の影響範囲は大きいのだから、社長に合わせてしたっぱが振り回されるとしても、それによって社長が正しい判断を素早くできるのなら、会社全体としては最適な方法だと言える。

今はコードの影響力の方が社長より大きくて、社長が右へ行けと言っても、コードが右へ行けるようにできてなければ、会社は右へ行けない。コードが右へ行けるように組んでおくことが会社の将来を左右する。社長よりもっと上の「お偉いさん」が来るとしたら、そりゃチーム全員その部屋に集まるのは当然で、それを一人の担当者にまかせておく従来のプログラミングの方が異常のようにも思えてくる。

コード様が社長より偉いということは、プログラマにデスマをさせればわかると思う。デスマの中でプログラマは苦し紛れにどこで手を抜いたらいいか必死で考える。ひどいコードができるのは当然だが、全てのモジュールが全部一様にひどいということはない。たいていそこにはひどさの濃淡があって、手を抜いたモジュールはもうボロボロでメンテ不能で、二度と修正、拡張できない。会社はこのコードに縛られてそのまま業務を継続するか、高い金を払って作る直すかで、どの業務がそういう目にあうかは、デスマの中では意識モーローのプログラマの気紛れな決断に左右される。

同じ決断を一番いい形でやるのが Mob Programming で、全体の品質も高くなるだろうが、それより会社の方向性とプログラムの拡張性が同じ方向を向いていることが重要だと思う。

企業活動とは、さまざまなステークホルダーからの矛盾を含む要求のトレードオフを取ることであり、その焦点となる場が、昔は経営幹部の臨席する会議であったが、今はコーディングがその決断の現場になっている。ここで企業がどっちを向くかが決まる。

ここになるべく多様なステークホルダー代理人を臨席させることが重要だ。

開発チームは、全員が金太郎飴の一様なプログラマになることはほとんどなくて、それまでのキャリアや担当するサブシステム等によって、自然と特定のステークホルダー代理人になっていく。全員が技術に立脚しながらも観点が散らばるということが重要で、チーム全員が一つのコードを書くというのは、そこでなるべく多くの情報を集約した上で重要なトレードオフを取っているということだと思う。

誰も何も言わずドライバー一人がたんたんとコーディングを進めていくだけだとしても、そのコードに含まれる決定事項がメンバーを通して、さまざまなセクションにフィードバックされていくことに意味がある。

結局、今のように一人でコードを書くってことは、コード様が「ここはどうなっておるのだ?」と言った時に、「えっと、今はその、担当者がおりませんので、この件は後日回答」を連発しているということで、コード様が「お偉いさん」だとしたら、これは随分失礼な話だ。

将棋が強い人が正義でいい、本当に強ければ

将棋のソフト指し疑惑について、第三者委員会の調査結果が発表されました。

私は、この問題について三本の記事を書いています。

いずれの記事でも、不正の有無について直接的な言及は避けていますが、内心では「不正は間違いなくあった」と考えて書いており、普通に読めばそのニュアンスを汲み取れる文章だったと思います。

現時点では、この点については、自分の認識が間違っていたと考えており、第三者委員会の「不正は無かった」という調査結果は充分信頼のおけるものだと思っています。このような記事を書いたことについては、三浦九段および関係者の方におわびします。

ここでは、自分のこの間違った認識がどうして起きたのかについてふりかえりつつ、さらにこの問題について考えてみたいと思います。

報告書で驚いた点

三者委員会の報告書を読んで、私が驚いた点は次の二点です。

  • 竜王戦挑戦者決定三番勝負の第二局、第三局で、連盟理事が対局中の三浦九段を監視していたこと
  • 疑惑の指してについて多くのプロ棋士ヒアリングを行なった所、大半が「不自然な手とは言えない」と回答したこと

前者は、8/26という文春記事よりかなり早い時期に連盟が積極的に調査に動いていたということで、これまで連盟側が強調していた「切羽つまった状況の中での判断」という説明との整合性がありません。

後者は、10/10に行なわれたトップ棋士による「極秘会合」の中で、三浦九段を擁護する棋士がいなかったという話とくい違います。

私にとっては、特に後者がショックでした。会合の席では勢いに飲まれて何も言えないということは充分ありうると思っていましたが、少なくともここで疑惑の対局や指し手について説明があったのですから、参加した棋士は、その後、問題の棋譜を後日自分で検討したことは間違いないと思います。

仮に渡辺竜王がこの後の処分を強引に進めたのだとしても、連盟会長の谷川九段や棋士会会長の佐藤九段が、それに異議をとなえなかったのは、棋譜の中に説明できない手があったからだと思っていました。

一致率の件や、その手をソフトが指せるかどうかについては、将棋ソフトの知識が浅いので、自信を持って判断できなかったり、見解が二点三点することもあると思うのですが、棋譜を見せて「これは三浦さんの手かどうか」という質問には、自分自身で明解な判断を下して、それが揺らぐことはないと思っていました。

私が「不正は間違いなくあった」と考えた一番大きな根拠は、この点です。特に佐藤康光九段がその場にいた以上は、棋譜の中に疑惑の手があると考えるべきだろう、そう考えていました。

三者委員会がヒアリングを行なった棋士の名前は公開されていませんが、状況から見ても棋力から見ても「秘密会合」の参加者が全く含まれていないことは考えられません。しかし、多くの棋士が「不自然な手はなかった」と証言しているということで、これを見て私は考えを変えるべきだと思いました。

ガバナンスの問題?

この新情報を元に考えると、連盟は、全くの無策や傍観だったわけではなく、告発を受けて、調査検討し、「電子機器の持ち込み禁止」というルールを制定することで一応の決着をつけようとしていたのかもしれません。

つまり、「疑惑はあるが確証は得られないので直接的な処分はせず、次善策として対局ルールの強化」という、コンプラ的に見て一般的な対応をしようとしていたのだと思います。

これにストップをかけたのが渡辺竜王だったようです。つまり、渡辺竜王は単なる一告発者ではなくて、連盟が進めていた対応策をひっくりかえして、対局者変更を積極的に進めた当事者であるということです。

私は、連盟の執行部の意思が実質的に不在である状況で、文春の報道という緊急事態が起きたので、第一人者である渡辺竜王が超法規的に動いたものと思っていましたが、その認識も間違いであった可能性が高いと思います。つまり、将棋連盟には、表のガバナンスとは別の、裏の非公式の権力があって、それが執行部の対応をくつがえす形で三浦九段の排除を決めた、ということです。

将棋界は、結局のところ、棋力=発言力で、将棋の強い人が言うことには誰も逆らえないということかもしれません。

二重権力構造をどのように解体するのか

という、推測の混じった観点から、これをどのようにすべきかについて、私なりに書いてみたいと思います。

まず、一般的に考えると、これは二重権力構造の問題です。つまり、公式の意思決定機構と別にプライベートな権力があって、それが恣意的に組織の意思決定に介入したということです。こう見るなら、単に、「裏の」権力を解体せよ、排除せよ、という話になります。

しかし、私は、それだけでは問題は解決しないと思います。

現代の組織における問題は、専門知識と関連して起こります。これに対して、専門知識の有無を問わない単純な民主主義では衆愚に陥ってしまうからです。

将棋における不正の有無はその典型で、棋譜を読み取る力が違えば、まるで違うものが見えてくるので、その点で勝っている人には、それ相応の発言権を与えるのは自然なことです。

今回の問題は、プライベートな裏の権力があったことが問題ではなく、その権力が本来持っていた論理を貫徹できなかったことから起こった、と見るべきだと私は考えます。

竜王フリーザでなくクリリン

つまり「強い人の言うことが無条件で正しい」という論理を貫徹するとしたら、将棋ソフトがプロ棋士より強くなった時点で、竜王や名人の立場が変わらないとおかしいと思うのです。竜王や名人は、絶対的強者ではなく、クリリンヤムチャと同じような、「人間の中では最強」の人です。人間の中で相対的に上位に立つ権利はありますが、フリーザの前ではザコの一人に過ぎません。

もし、大山十五世名人が、下位の棋士の不正を審判するとしたら、「これはあいつに指せるような手ではない」という発言には絶対性を認めてもいいかもしれません。大山名人は下位の棋士が将棋盤の前で行なうことの大半を把握しているからです。

「極秘会談」に集った棋士が同じ観点のみから判定していたら、「これは三浦さんに指せるような手ではない」という渡辺竜王の主張を自信を持って否定していたでしょう。それができなかったのは、そこに自分が把握できてないソフトという存在が関係していたからです。

私は、渡辺竜王が、全くの根拠なく私利私欲で動いたとは思いません。むしろ、明文化されてないけど、将棋界に古くからあった慣習法にのっとって手続きを踏んで動こうとしていたのだと思います。強い人を集めた上で、たとえ一方的であっても論点を主張するという手順を踏んでいます。

問題は、「将棋が強い人」の集りに、ポナンザや技巧が参加できなかったことです。ソフトの開発者を呼べば違ったかもしれませんが、開発者もソフトの強さの理由を全て把握しているわけではないので、どちらかと言えばクリリンに近いポジションで問題の根本的解決にはなりません。

つまり、このプライベートな「トップ棋士会談」は、ガバナンスとかコンプライアンスとは関係なく、将棋指しの考え方を徹底していれば、集ったその場で「俺たちには、これを左右できる権利はないね。参考意見くらいは言わしてもらうけど」ということに気がついたはずです。

大山名人は、「機械に将棋なんか教えちゃいけません」と言ったそうですが、もしこの場にいたら、それに気がついたかもしれません。自分が独裁権力をふるうことを正当化していたその根拠を信じてそれをきちんと理解していれば、同じ論理がこの「トップ会談」を解体する根拠になると理解できたでしょう。

一刻も早く三浦九段の名誉回復を

ということで、私としては、「原点」に戻ることを将棋連盟と渡辺竜王に強く求めたいと思います。

「原点」とは二つの意味があって、一つは、名人や竜王の絶対性が失なわれた以上、連盟の運営は人間界のルールで行なうということです。

「人間界のルール」とは間違いを許容するということです。民主主義でも三権分立でも人間界のルールは、人間が間違うことがあるということを前提にできています。

間違いを許容するということは、間違った時に積極的にそれを修正しなくてはいけないということで、三浦九段の名誉と経済的損失を取り戻すための努力をするということです。具体的には、謝罪や損害の回復は当然として、谷川会長の辞任と外部理事の招聘を含む執行部の改革も必要だと思います。

もう一つの「原点」は「将棋が強い者の言うことが絶対」という将棋界の常識の原点です。

繰り返しますが、私はこの常識を否定すべきとは思いません。むしろ、これを大事にして貫徹すべきだと考えています。

ひょっとして、谷川会長や渡辺竜王は、「三浦シロ」を表明する以上は、今度こそ間違いが許されないと思っていて、その確信を持てないので踏み出せないのかもしれません。

しかし、「将棋が強い者の言うことが絶対」という将棋界の伝統を本当に守るとしたら、ソフトの問題については「絶対的な者はいない」ということになります。

人間界のルールでは、間違いの有無ではなくて手続きの正当性や透明性が問われます。仮に「三浦シロ」という判断が間違っていても、そこに至るプロセスが妥当であれば許容されるのが人間界のルールです。

その代わりに、一定の手続きを経て出た結論には、全身全霊従うのが人間界のルールです。それに従うことが同時に将棋界の伝統にもかなうことになると私は思います。


なぜこの問題に言及するか -- 広義の「フレーム問題」として

最後に、なぜこの問題に繰り返し言及するかと言うと、ひとことで言うと「これはとても他人事とは思えない」からです。

これは、AIを中心とした技術の進展から、多くの分野で発生する典型的な問題である。私はそのようにとらえています。

別の言い方で言うと広義の「フレーム問題」と見ています。「フレーム問題」とは人工知能の分野での古典的な難問ですが、ここでは将棋を例として説明してみます。

将棋で「詰将棋」や「次の一手」と呼ばれる問題があります。ある局面を提示して、次に指すべき手を当てるというゲームです。このゲームではルールは将棋のルールをほぼそのまま踏襲していて、将棋の棋力向上のための練習問題として実力のレベルの応じた数多くの問題が作られています。

こういう問題をたくさん解いて訓練した人は、間違いなくやる前より棋力が向上していると言えるのですが、ひとつだけ実戦との違いがあります。

それは、実践の中で、問題を解くことで得たノウハウを応用すべき時はいつかということです。ある局面が、問題として提示される時には、「正解」があることが保証されています。詰将棋なら詰める手順が一つだけ存在することが保証されていて、「次の一手」なら、状況を劇的に好転する手があることが保証されています。

それを知っていて考えるのと、そういう前提がなくて、詰みがあるかもしれない無いかもしれない、いい手があるかもしれないないかもしれない、という実戦の中で似たような局面について考えるのでは、全く違います。

将棋ソフトでも「詰みの発見」はコンピュータにとって簡単な処理なので、早くから詰将棋を早解きする専用ソフトが開発されてきましたが、実戦の中ではCPUを100%詰みの発見の処理に割り振っていいとは言えないので、対戦ソフトが詰みを発見する能力は、多くの場合詰将棋専用ソフトより劣っていました。

人間は「ここは詰みがありそうだ」とか「ここ数手は勝敗を左右する場面なので慎重に時間をかけて考えよう」ということが自然にわかる、少なくとも特にその点について努力しなくても、詰将棋の能力の向上にともなって、「いつ詰めを探すべきか」という判断する能力も自然に向上します。

しかし、機械にとって、ある「枠組み(=フレーム)」の中で最適な解を求めることと、いつそのフレームを適用すべきか判断することは、難易度が決定的に違います。これが「フレーム問題」のもともとの意味ですが、私はこれと同じ困難が人間や人間社会にもこれから多く発生すると予想して、それを広義の「フレーム問題」と呼びたいと思います。

現代社会は、多くのフレームが整備され、フレームの中での最適解は多くの場合検索を使うことで簡単にわかります。たとえば、不正ソフトの問題も司法の枠組みで考えるべき点、統計の枠組みで考えるべき点があって、これらの枠組みでは何が正しいか、どうすべきか、という答は簡単に見つかります。

しかし、複数の枠組みが重なって適用される時に、どの枠組みを優先して、どの枠組みを除外して考えるべきかという判断は難しく、簡単に一致する答がないこともあります。

AIを中心とした技術の発展は、平和的に棲み分けているたくさんの枠組みが組合わさった構造を壊して、一からフレームを選択していくことが必要な事態を起こすことが多い。

今回の不正の問題は、特に処分間際の時間的に切迫した状況においては、その典型的なケースだと思います。情報が不十分な段階から私がこれに繰り返し言及するのは、自分がその時点でどのようなフレームを優先して、どのようなフレームの組み合わせで考えたのかと言うことを記録しておきたいからです。

後になって、すべてのフレームが確定してから読み直すと、いろいろ不適切なところが見えてくるかもしれませんが、フレームが不確定な状態で自分が何をどのように考えていたのか知る機会はそんなに多くありません。いずれ、自分の身の回りにもそういうフレームの再構築が起こるに違いないと私は思うのですが、その時に多少は参考になるのではないかと考えています。

「千田率」によって裁かれる恐怖

(2017/01/03 追記

この記事内の不正の有無に関する見解について私は後日考えを変えました。詳しくは下記の記事を参照ください。

追記終わり)

将棋ソフト問題はいよいよ混迷を深め、渡辺竜王の告発の正当性が疑われる事態となっている。なかでも、不正の疑いの根拠の一つとしてあげ(て後に撤回し)た「一致率」という数値が統計的な根拠の薄いものだという批判が多いようだ。

確かに、千田五段の公開したデータは、対象となる手が恣意的に選択されていて、三浦九段の過去の対局や他の棋士のデータとの比較がなく、分散も考慮してないので、統計的にはナンセンスである。「千田率」と揶揄されてしまうのも仕方ないかもしれない。

しかし、もし三浦対渡辺の竜王戦が行なわれていたら、多くの将棋ファンがこの数値を目にすることになっただろう。技巧はフリーで公開されており、多くの将棋ファンが日常的に使っている。注目の集まるタイトル戦ともなれば、そこで「一致率」が高いことが話題になるだろう。千田五段が行なった手の選別は、アマチュアでも高段者なら容易にできることで、「それに対して説明できますか?」というのが、渡辺竜王が突き付けた問い掛けなのだと思う。

突き付けられたのは、第一には、谷川会長や羽生三冠を始めとする「極秘のトップ会談」に集った棋士たちである。

私は、この出席者は全員、少なくとも、対象となった三浦九段の棋譜に対してなんらかの異変は感じたのだと思う。この異変に対して「一致率」という数値で疑いをかけられた時に、胸をはって「それは偶然だ」「それはナンセンスだ」と言いきれるのか。

そして、同じ問い掛けが三浦九段にも行なわれ、「疑われているなら対局はできない」という発言につながったのではないか。最終的な質問の場で、どのようなやりとりがあったのかは、双方の意見が食い違っていて、詳細は確認できないが、渡辺九段の告発の真の意図は「ファンはあなたの将棋を技巧と比較して観戦していますよ。それで何を言われてもいいのですか?」ということなのだと思う。

渡辺竜王は、将棋を「興業」として見る意識が強いのだと思う。この点では、他の人と違いがあるかもしれない。「三浦の千田率高いw」というファンからの目線に対して説明するのは、言われた棋士本人の責任ではなく、将棋界全体の責任だという意識が他の関係者より濃いのだと思う。

もしここで、「棋士をなめるな!」と怒る人が誰か一人でもいて、「そういうこと言う奴が言たら俺が責任を持って反論する」と説明責任を引き受けてくれるなら、渡辺竜王は安心して、告発を取り下げただろう。それが三浦九段本人であれば一番いいが、そうでなくてもトップ棋士の誰かがそう言えばよかった。

「千田率」は三浦九段のクロの確証とはならないが、将棋界全体へのファンからの不信を致命的に高めるには充分な数値なのである。

これは、三浦九段のクロシロとは関係なく、告発の時点で確定している事実で、渡辺竜王の踏んだ手順は充分なものだと思う。もし、これが疑惑の4局と同様、高いままで維持されれば当然話題になるし、突然低くなれば、そのギャップが話題になる。単に週刊誌のスキャンダルだけであれば、「馬鹿げている」と黙殺しておけばいいが、ここに「千田率」が加わった時にどうするのか。「統計的には無効です」と専門家が言えば騒動はおさまるだろうか。

渡辺が三浦を「千田率」で裁いたのではなく、将棋界が「千田率」で裁かれることを読んだ渡辺が裁かれる側に立って行動したのだ。


ここで私が残念に思うことが、将棋というゲームの独特の面白さが、この誤解が拡大する要因の一つになっていることである。

将棋は、「完全情報非ゼロ和ゲーム」という種別に属していて、これが意味するのは将棋の神様はこの世で一番将棋を楽しめない人であるということだ。将棋の勝敗はルールを決めて盤の前に両者が着席した瞬間に決まっているだが、神様にはその勝敗が見えても人間には見えない。充分なCPUがあればコンピュータにも見えるが、地球上の全てのCPUを足しても見えない。地球上の全てのCPUどころか、地球上の全てのシリコンを掘り出して全部CPUにしても見えない。計算量が多すぎるのだ。

それによって将棋は、単純で決定的なルールでできているのに、先が見えない中で「思考の省略」を競うゲームになる。「思考の省略」の中には対戦相手の思考方法をシミュレートして、それによって思考を省略することも含まれる。それによって、将棋は複雑なゲームになり、盤内盤外からさまざまな要素を抽出して選択することを競うゲームになる。この「思考の省略」の中にはさまざまな個性があらわれてくるし、ゲームの性質も局面ごとに変化していく。

ある時には、単純なパズルの早解き競争になるし、ある時はマラソンのように正確な読みをどちらが長時間続けるかの勝負になるし、ある時は受験のように事前の勉強量の勝負である時は、相手の意図を読みあいハッタリをかけるポーカーのようなゲームになる。しかも、そういう要素が複雑にからみあい、一手指すごとにゲームの種類が変化していく。

そんな複雑なゲームでは、初心者には何もわからないのかと言うと、言わばフラクタルな側面もあって、初心者には初心者なりの楽しみ方があって、中級者にはそれなりの楽しみがある。初心者がプロの対局を見てもちょっと解説があるとわかった気になって楽しめる。

そして、おそらく、上に行けば行くほど、より複雑な地形が見えてくるのだ。棋譜から「思考の省略」という地形を深く読み取る中に顔写真のように個性が浮かびあがってくるのだろう。

だから、トップ棋士が「これは三浦九段本人の手には思えない」と言った時、彼らの中には確信というより、「棋譜の中にひとつの事実を目撃した」という感触があるのだが、それをA級の棋力の無い人に説明するのが難しいのだと思う。

それは単に強い人や突然強くなった人の手とは違うのだと思う。集まった棋士みんな羽生さんの人外の手に何度となくやられた人であり、その羽生さんも今は連盟会長の谷川さんに一瞬で切り殺された経験が何度もある。「これは人間には読めない素晴しすぎる手だから人間に指せるものではない」とは簡単には言えない人たちである。将棋を一番よく知っていて、なおかつ自分が将棋を知らないことを経験からよく知っている人たちだ。

つまり、羽生谷川という人間の限界を、一番近くで自分の人生の最も切実な課題として見てきた人たちであり、そういう人たちが揃って「重い沈黙」に沈んだということの意味は重い。

私から見ると、これは疑惑というより、「目撃者」が7人いたという事件に見える。ただ、丸山九段のように現場にいたけど何も見なかったという人がいて、そもそも、三浦九段も「目撃者」になれるレベルの人なので、どのようにうまくやっても棋譜が残る以上、現場を棋譜の中で「目撃」する人がいることはわかるはずだが、とも思う。

将棋の中には、棋力という解像度によって全く違うものが見えてくるのに、棋力が違う人の言うことも断片的には意味がわかる。だから、疑惑の将棋の棋譜を見て、彼らが何を考えたのか、わかる部分とわからない部分があって、それが複雑にからみあってくるので、一度不信の目で見ると、とめどもなく不信が高まるのだと思う。

それが将棋の面白さと同型なのである。

将棋のソフト指しに見る逆転の構図

(2017/01/03 追記

この記事内の不正の有無に関する見解について私は後日考えを変えました。詳しくは下記の記事を参照ください。

追記終わり)


最近、将棋観戦してて、解説者が変に弱気になっていると感じることがよくあります。

昔から、解説の棋士は、対局者より上位の人でも「これが正解の手で、はたして彼はこれを見つけられるか」というような解説はしませんでした。全身全霊をかけて盤の前で真剣に対局している人には、解説者は一定の敬意を持っていました。解説者は、聞き手の人に冗談を言ったり視聴者向けに基本の手筋を説明したりして、番組を成立させる片手間で読んでいるのですから、対局者より多少棋力が上でも、「正解を知っているのは対局者二人」というスタンスで解説してました。

だから、「ここではAかBしかない」と言って、指されたのがCであっても、別に解説者がうろたえたり謝ったりすることはなくて、平然と「ああここでCですか。いや、これはいい手ですね」と言っていました。

しかし、今は、「ここではAかBしかない」と言いたいけど言わずに微妙にごまかしているような解説が多い。特にニコニコ動画だと「〜としか思えないですが、どうですかね」とか言ってコメントを見ている。あるいは控室の検討の様子を気にしている。

おそらく、ソフトの検討結果を気にしているのだと思います。

「ここではAかBしかない」と断言してしまって、ソフトがCを表示していたら困りますからね。気持ちはわかります。

これを見てて思ったのですが、昔は、対局者>解説者>視聴者だったのですが、今は、この力関係が逆転しています。ソフトを自由に見れる視聴者が一番上で、控室の検討やコメントを通じて、部分的、間接的にソフトを参照できる解説者がその次、そして、一切ソフトと遮断されている対局者が一番下です。

今は、対局者<解説者<視聴者なのです。

解説者は、(ソフト情報が断片的に伝わってくる状況にある)自分の読みが対局者に劣ることは心配してなくて、ソフトべったりの視聴者から見て的はずれなことを言ってないかを気にしているのです。

性善説に基くあいまいなルールが時代遅れ」というのはちょっと違いますね。今までは対局者が最強だったので保護する必要がなかった。タイトル戦で真剣に対局している人に助言できる人なんて世界中のどこにもいなったのです。

必要なルールとは、アマの大会でプロが助言しない、プロの対局でも下位の棋士の対戦では、上位の棋士が助言してはいけないというようなルールです。これは性善説で充分だったのです。「名人が助言したら対局が成立しません。でもそんなことあえて言わなくても名人はわかってますよね」ということです。

プロがアマの対局中に助言したらアマの大会が成立しません。いわば、プロは猛獣でその猛獣を檻の中に閉じこめて、弱いアマを保護する必要があった。プロでも下位の人は上位の人、名人や竜王という猛獣から保護する必要があった。

名人を囲う檻は、名人という猛獣が外で暴れないための檻だったのですが、今はそれが、名人という壊れ物を外界から保護する檻になっているのです。

対局者が不正をするしないではなくて、第三者がソフトの読みを無理矢理に教えることで対局を壊してしまうことができるのです。

竜王戦の会場に街宣車でおしかけて「6三歩成」とか「3二飛成」とか大音量のスピーカーでソフトの読んだ手を怒鳴るとか。街宣車では騒音による業務妨害になりますが、ドローンで敷地外から掲示したらどうなんでしょうね。

たぶん、悪意を持って手を見せようとすること自体が業務妨害になると思いますが、こういう種類の妨害は竜王が最強の時代にはあり得なかったことです。

渡辺竜王は、「竜王という権威が保護すべき最弱の存在であってそれでもなおかつ大事なものである」ということを誰よりも理解し受けいれるリアリストなのだと思います。

最弱の権威にとっては、疑いが確定してなくてグレーであっても致命的なものとして対応しなくてはいけない、ということです。

これは、「炭鉱のカナリヤ」としてとらえるべき問題だと思います。

ソフトの評価関数は相対的なもので、精密で正確にはなっても、名人や竜王の代わりにはならない。手の意味や価値はやはり相対性の中にはないと私は思うのです。

ヴァイラルメディアも、そのうちゴシップ記事だけではなく、客観性やファクトを含んだ評価関数を手に入れて信頼性の高い記事をピックアップし自動生成するようになると思います。社会を形作っているあらゆる権威が、これから似たような形で相対性の中に埋もれていくでしょう。

相対性が正確であるというだけで、人を排除していいものなのか。でも、人が運営するメディアは、間違いや偏りや思いこみだらけで、それが数値として誰の目にも見えるようになります。

その両面をリアリズムでとらえないと、何か大事なものが絶滅してしまいます。そして、その変わり目は急激に起こるのです。

将棋の評価関数は、人間よりはるかに劣っていたし、今もそうです。でも、将棋ソフトは人間よりはるかに深く読めるので、人間のレベルでなくてもいいのです。ちょっとした評価関数の改良が結果を飛躍的に改善するのです。ボブサップはチャンピオンになれなかったけど、多少マシな寝技のできるセームシュルトは強すぎてK1をつまらなくしてしまいました。両者のテクニックの違いのようなものです。

人間の頭脳とコンピュータを体格差にしたら、サップやシュルトなんてもんではなくて、負けても勝負になってるだけで、プロ棋士というのは本当に凄いものだと思います。

ただ、体格のいい人が、どの程度、ボクシングテクニックや寝技を見につけたら最強になるのか、その境目はなかなかわからないものです。 将棋ソフトも、数百台のクラスタならプロより強いと言われて、二年でそれより強いスマホのアプリが出てきました。ボナンザ〜GPSクラスタ〜技巧という技術の進展は急激ですが連続的、漸進的なものでした。

ニコニコ動画の将棋中継画面は、将来の何かを見事に象徴しています。古い権威が相対性の評価値を示すバーで囲われていて、我々はそのバーの上がり具合で枠の中にいる人を「すごい」と言っているのです。

枠の中にいる人は、その評価値を単なる余興としか思ってなくて、実際、ある時までそれは冗談にしかならない、とてもいい加減な数値なのですが、ある日突然、その数値が正確になって上下関係が逆転してしまうのです。評価値だけを見て枠の中を見ない人と、評価値を無視して枠の中だけを見る人がおたがいを馬鹿にする不毛な論争をし続けていて、両方を見るリアリストがほとんどいない。

渡辺竜王に私心はない!

(2017/01/03 追記

この記事内の不正の有無に関する見解について私は後日考えを変えました。詳しくは下記の記事を参照ください。

追記終わり)


将棋のソフト指し疑惑の問題、混迷を深めていて、何が真実かわからなくなっています。しかし、簡単にわかることがひとつ見過されているような気がするので、書いてみます。

それは、渡辺竜王がもし私利私欲で行動していたとしたら、彼にとっての最善の策は、三浦九段との竜王戦をそのまま戦うことだったということです。

渡辺竜王が三浦九段のクロを確信していた可能性は高いと思うのですが、そうだとしたら、竜王戦の最中かその後に三浦九段のソフト指しが露見する可能性も高いと読んでいたでしょう。

もし三浦九段が竜王戦でソフト指しをしたら、順位戦の対局と同様に負けてタイトルを奪取されてしまうかもしれませんが、その対局の棋譜は注目を集めて多くの人に研究されるわけですから、高位棋士も将棋ソフトの専門家もその内容に疑問を持つでしょう。

プロ棋士のソフト指しをどうやって見抜くのかは難しい問題ですが、タイトル戦での真剣勝負の棋譜が最低四局揃って、考慮時間、離席の状況、感想戦でのやりとりも全部詳細に報道されるので、今までよりは解析が進むはずです。

渡辺竜王が自分で動くより、タイトル戦でソフト指しをさせて、それを多くの人の目に晒すことが渡辺竜王にとっての最善の策です。それで直接的な証拠が出てくればいいし、出てこなくても、ソフト指しができないようなルールが制定されることは決まっていたので、誰にもソフト指しができないようになれば、真の実力者は誰かということは自然にわかってきます。

私は、渡辺竜王はそうすべきだったと思いますが、それは野次馬だから言えることです。タイトル戦の中でのソフト指し疑惑が出てくれば、竜王戦どころか将棋界そのものの存続にかかわる問題になります。そのリスクをかけて自分だけの利益を選ぶという選択はできなかったのでしょう。

逆に、渡辺竜王はシロと思っていたけど、疑惑の噂を利用して謀略をしかけたという可能性はどうでしょうか?

シロで複数対局の実力勝負であれば、渡辺竜王が勝つ可能性が高いと思います。もちろん勝負に絶対はないのですが、それは長年将棋界で戦っている彼には当然のことですから、それはリスクとは言えない。謀略がバレた時のリスクと比較すれば、とても割に合う賭けとは言えません。仮に、最近の三浦九段が急速に力をつけていて、「これでは今回は負けるかもしれない」と考えたとしても、羽生さんや森内さんなどの実力者と過去に何度も対戦しているわけですから、その時以上に「これはどんな手を使っても対戦を避けなければ」と思える相手ではないでしょう。

そもそも棋士というのは、負けることへの耐性はできているはずです。羽生さんだって四回に一回は負けています。衆目の面前でバサっと切られて言い訳のしようもなく負けるというみじめな経験を、どの棋士も何度もしてきて今があるわけです。一般人が「負けたくない」という思う感覚で考えてはいけないと思います。

だから、三浦九段のシロクロと関係なく、渡辺竜王が純粋に将棋界のことを第一に考えて行動したという点は間違いないと私は思います。

ただ、彼の行動が全部正しかったかどうかと言えば、いくつか疑問があります。報道が錯綜していて事実関係がわかりませんが、彼が暴走しているという面もあるように感じます。いくらタイトル保持者でも一プレイヤーが運営と一体になって動いたという点と、外部に客観的に示せる証拠をつかむ前に行動したということは問題があるかもしれません。

緊急時ということで、守るべき基本的な原則をこえる選択をしたわけですが、これは、将棋に関係なく多くの人が自分のこととして考えるべき問題だと思います。

AIは多くの人の仕事を奪うと言われていますが、それ以前に技術の急速な進展は、人間の社会における力関係をひっくりかえします。

将棋界は、今回のソフト疑惑騒動が起こる前から深刻な危機にあると私は思うのですが、この危機感の感じ方の違いが今回の問題の背景にあると思うのです。

「ボルトより軽自動車や原付の方が早いけど、ボルトに対する尊敬はゆるがない」などと言いますが、将棋ではちょっと意味が違います。プロ棋士と観客の力関係が逆転してしまうからです。今や、将棋の観戦は、スマホの技巧を片手にして、どちらが「正解」の手を指すかを見守るだけのものになりつつあります。ドラマ性や神秘性が救いようもなく失われていきます。

単純に携帯の持ち込み禁止を決めればいいものではなくて、今後、プロ棋士という職業にどういう意味があるのか、根本から問い直されている時代です。これについてわがこととして日頃から誰よりも真剣に考えていたのが渡辺竜王で、将棋連盟の幹部がその危機感を共有できてないことが、渡辺竜王の暴走につながってのではないか、私はそのように想像しています。

そして、「本当の危機の時、何が絶対守るべき原則で、どこまで踏みこえていいものか」という問いに、今後、将棋棋士だけでなくて、多くの人が直面すると思うのです。

事実を直視して正しい危機感を持てるかどうかは、能力や立場に関係なくて個人差が大きいようです。誰もが渡辺竜王の立場に立たされる可能性はあります。そうなった時、「上がバカだから俺は自分だけを守るよ」と言っていいものか、ということを私はずっと考えています。

改憲の本当の争点は「誠意」という問題ではないだろうか?

自民党は、日本が何か自分の意にそわないものを押しつけられたと思っていて、それを変えることで「美しい日本を取り戻す」と言っているが、押しつけられたものが何かわかってなくて議論が混迷しているのではないかと思う。

本来、自民党が目指している改憲とは「紛争が生じた場合は双方誠意をもって協議する」の一条のみを憲法とすることだと思う。

日本人の意識として、これ以上のことをモメ事が起こる前に決めるというのは、相手に対する積極的な不信を表明したことになる。それは間違ってなくて、本来、憲法とは国民が政府を信頼できないから、「こういうことをしないと約束するなら、今の所は一時的にそちらにまかせる」ということで、政府と国民が一体感を持つための文章ではない。

それはGHQが陰謀や悪意でそうしたのではなくて、単純に憲法ってそういうもんだから、そうなっているだけである。

しかし、平均的な日本人にとって、そのように話が通じない相手と共存するのは、相当なむちゃぶりなのだ。共存というのは相手の「誠意」を信頼してはじめて成り立つもので、契約する=相手の誠意を信頼しない=宣戦布告くらいの感覚がある。

だから、そのような異物が国家と国民の間に立ちふさがっているので、国家の正常な運営に支障がある、ということではないだろうか。

一方で護憲派は、9条を「外国との紛争が生じた場合は双方誠意をもって協議する」と解釈して、これをやめるということは、「誠意」を持たずに外国と接する=宣戦布告となると反対しているのではないだろうか。

私には、どちらも、価値観の違う相手と価値観が違うまま何とか共存する、という観点が欠けているように見える。

価値観の違う国と共存しなくてはいけない。価値観の違う政府と共存しなくてはいけない。価値観の違う隣人と共存しなくてはいけない。憲法や人権はそういうためのもので、ものすごく不自然なものである。

人間にとって自然とは、「誠意」の通じない相手には暴力で対抗することである。その自然を抑えつけてできているものだから、憲法も人権も美しいものではないし、血なまぐさい歴史から生まれてきたものである。これがないと結局果てしない殺しあいになっちゃうから、それよりはましだよね美しくないけど、程度のものである。

だから、「改憲美しい日本を取り戻す」というのは、私から見ると改憲というより廃憲である。政府と国民が一体となるならそれは「憲法」と呼ぶべきではない。「日本は憲法を廃止して、それに頼らない国になります」と言うべきだ。

ただ、「紛争が生じた場合は双方誠意をもって協議する」という条文は同時に、「考えられる紛争の具体的なケースを事前に列挙することは禁止します」という意味でもある。やはり、日本は言霊の国で、口にしてしまったことが実際に起きた場合、それを口にした人に責任がある、という感覚を共有する人は多いだろう。「家賃を踏み倒したら」と書くことは「おまえは家賃を踏み倒すだろう」という宣言だということだ。

つまり、「憲法」を廃止してそれに代わる新しい国の仕組みを議論するということは、つまり将来日本に起こる悪いことを列挙することになるので、「日本は美しくない国だ」と言うのに等しいので、そこには踏みこまないように事を進めようとするのである。

そして、「誠意」だけでは実際に全てのトラブルを収拾できないことは日本人もわかっていて、これを補完するために「顔役」というシステムがある。「誠意」を持って話しあっても解決できない時、双方の「顔役」が出てくる。そして、「顔役」は階層的に上のレベルのエスカレーション先があって、深刻なトラブルほど上まで行くが、あるレベルに達すると「まあ、おまえたちの気持ちもわかるがここはひとつ俺の顔を立ててがまんしてくれや」となるわけである。

「顔役」は美しくないモメ事を飲みこんで収拾する役割で、裁判官とか権力者とは性質が違う役割である。日本人が所属にこだわるのは、「誠意」が機能しない時のエスカレーション先を確認しているわけで、それを持たない人間は信頼されない。

だから、個人主義の世の中は、この「顔役」というエスカレーション先が見えない状態であり、それは日本人にとっては「万人の万人に対する闘争」の世の中に感じられてしまうのである。

おそらく、自民党が目指す社会とは、「誠意」と「顔役」による秩序であり、それは、国家と国民の対立関係を前提として、そこに「契約」で秩序を作るという「憲法」の考え方より、日本人の感覚によく合っているのだと思う。

github という公的なインフラを使うために必要なこと

馬しか見たことない人に、これと自動車を両方見せて「どっちが欲しい」と聞いたら、どちらを選ぶだろうか?

理性的な人だったら、自動車が平らな道しか走れないことを一番気にするだろう。

ボストンダイナミクスの四足自走機械は、馬が走れる道ならほとんどそのまま進める。道が舗装されてなかったら、自動車で行ける範囲は本当に限られている。どうみても、四足自走機械の方がずっと実用性が高い。

「道を舗装して、トンネルや橋を作って道を平らにすればいいんですよ」なんて言ったら、「たかが乗り物のためにどうしてそんな手間をかけなきゃいけない?」とあきれてしまうだろう。

私は、今、github を中心に仕事が回る職場で働いている。実際使ってみて、この github というものは非常に便利だと思うのだが、過去の自分にこれを勧めてみたらどういう反応するか想像してみると、これと同じ反応になると思う。

私が働きはじめたのはワープロが普及する前で、最初の5年くらいは、書類を全部手書きしていた。その後の技術変化には全部、それなりに適応してきたけど、最初の刷り込みは大きい。

github は便利だけど、組織の構造というか指揮命令系統を変えないとこれは使えない。過去の自分は「たかがワープロのためにどうしてそんな手間をかける必要がある?」と言うだろう。

ワープロで文書を作成し、そのファイルをメールで送信したりファイルサーバに置くのは、紙でやってたことの延長だ。同じことだけど随分便利になっている。昔の自分は、その方が自然で使いやすいと言うだろう。

四足自走機械が、馬より安くて燃費がよければ、同じように、人は喜んでそれを使っただろう。道を平らにしてまで車輪自走機械に乗り換える必要性なんか感じなかったはずだ。

ワープロやメールなどの初期のITは、全部紙でやってたことのシミュレーションだ。同じことをやってもコンピュータ上のシミュレーションでやるといろいろ便利になる。最初にそれをやるのは正しいし、それは大きな進歩だ。

しかし、技術の自然な利用法という観点で見ると、エンジンやモーターのように動力源が回転するのであれば、タイヤのように回転する部品で推進力にする方が自然だと思う。機構も単純になるし、部品も少なくなる。

コンピュータやネットの自然な利用法は github だ。蟻塚に無数の蟻がたかって蟻塚が成長するように、リポジトリに人が集まって、自然にソフトウエアが成長するイメージ。

工場や物流センターを作るとしたら、自社の敷地内部の設計より立地が大事だと思う。インターからの距離が重要だ。公道である高速道路網とどのようにつながっているかが重要だ。

それと同じように、ある程度の規模のアプリケーションを作るとしたら、内部の設計より、github との距離が重要だ。今、アプリケーションを書くなら、自分で書くよりはるかに多くのオープンソフトウエアを使うことになる。高速道路網に依存した物流センターを作るようなもので、公的なインフラとの連結が重要なのだ。

そして、幹線でなく支線との連結の方がより重要だ。

幹線となるような著名なオープンソフトウエアは、大なり小なり特異な事例であって、普通でないリーダーが率いていたり、特殊な企業が特殊なビジネスモデルのために金を出している。そういうものと普通の会社の業務用アプリケーションとはあまり関係ない。

しかし、多くの幹線ソフトウエアの回りには、プラグインという支線となるソフトウエアがあって、本来は、こういうものに注目すべきだ。大半の支線のソフトウエアは普通のプログラマが数人で開発している。それが何千何万と集って github の中にインフラを形成している。

9割はうまく開発されているが、バグだらけだったり、おかしな方向に進化したり、突然消えるプロジェクトもある。そういうダメなソフトを避けたり、問題を自力でカバーするのが、内製するプログラマの腕の見せ所で、そういうノウハウを得るためには、自分たちが github を日常的に使っていることが非常に有利になる。というか、そういう経験がない人は、何をどう使っていいのかわからないだろう。

四足自走機械と車輪式自走機械を比較検討するとしたら、両者のスペックでなく、道路網の整備状況を見なくてはならない。道路が無い所にトラックだけ入れても何もできない。

それと同じように、github を使うということは、指揮命令系統がない仕事の仕方を導入しないといけない。それをしないと、既に構築されている巨大な公的インフラが見えてこない。

指揮命令系統がない仕事を構成しているのはプルリクエストだが、それを担保しているのは「いつ何どき誰がフォークしてもよい」という暗黙のルールだ。たとえば、Ruby on Railsリポジトリには、今日現在、12953のフォークがある(右上のForkという欄)。この12953人の誰もが「今日から俺のリポジトリRuby On Railsの本家である」と言ってもよいのだ。もし、それに同意する人が本家より多ければ、そのリポジトリが本家になる。

12953人のほとんどは勉強のためにフォークを作成していると思われるが、ごく稀に、自分たちが必要な特別の Ruby On Rails が必要なので、フォークしてそれを維持している人がいる。

もし、本家が迷走して、おかしな方向に行ったら、そのどれかが本家をのっとるだろう。

そういう分裂はほとんど起こらないが、それは、本家がまともな運営を強いられているからだ。幹線が幹線の行くべきでない方向に進むと、そこから別の幹線が生えてきて、最初の幹線をしぼませてしまう仕組みが、 github にはある。この方法は、特定の会社が「我々が責任を持って正しい方向に幹線を進めますので信頼してついてきてください」と言うより、ずっとうまくいくのだ。他の会社が幹線を作れないと、その幹線はたいてい、利益誘導のために、違う所へ行ってしまう。よくても寄り道をする。

誰でも幹線をフォークでできることが幹線を正しい方向に維持して、それがあるので、多くの人が支線をつなげ回りに物流センターがたくさんできる。安心して支線や自社設備を作れるので、スピードが速い。

指揮命令系統がないことが信頼性を担保しているというこの仕組みが、インターネットにとって自然なのだ。エンジンで走るならタイヤで駆動力を得るが自然であるのと同じように自然なのだ。

それが自然であることの証拠をもう一つあげるなら Twitter だ。

Twitterにも、指揮命令系統がないことの強さがある。ただし、その強さは、今の所、破壊力としてあらわれることの方が多い。Brexitをはじめとする、昨今の社会的大事件は、全部、指揮命令系統のない運動が、指揮命令系統のある組織を打ち負かしたことから起きた。そうなるのは当然で、力学に近い絶対的な法則だ。インターネットでは何事もシェアすることが自然なのだ。摩擦が少ないだけ、力が無駄なく伝わる。

ワープロ手書き書類をよくシミュレートしたように、コンピュータは紙をよくシミュレートする。だが、一つだけ重要な機能が抜けている。ネット上の情報は「なかったこと」にはできない。組織というものは全て、いざということに紙を燃やすことで「なかったこと」にすることに依存している。そこだけが抜けているので、本来は、コンピュータで紙をシミュレートするべきではなかったのだと思う。

「なかったことにする」というのは、めったに使われないが、核兵器やフォークと同じように抑止力として社会が回るために重要な機能だったのだ。

ボストンダイナミクスの四足自走機械は、災害現場などのごく特殊な場面のみで使うべきもので、他は全部車輪自走機械を使うほうがいい。

同じように、コンピュータとインターネットは、情報をシェアするために使うべきで、紙のシミュレートをしていいのは、ごくごく特殊な状況のみなのだ。

たとえ、そのために、指揮命令系統という長年人が慣れ親しんだものを捨てなくてはならないとしても。

大量生産の時代には、本来それに向いてない製品を扱う業種も、自動車や家電の会社を真似ることを強いられた。

これからは、本来 github に向いてない製品を扱う業種も、github のやり方を強いられる。Twitter のスピードに勝てるのは github だけだからだ。そして、ソフトウエアでないものをユニットテストしたりプルリクエストするためにAIが使われていくと思う。




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